2016.3.21 池生神社37 諏訪神社2
和光市の諏訪神社から、以前に加須で見た諏訪神社のことを思い出しました。
2011年に行田市のさきたま古墳群に向かう途中で見たこの加須市馬内(もうち)の諏訪神社には「内陸砂丘」と書いてあったのですが、周りは平らなのにここだけにこんなに高い内陸砂丘があるというのは不自然ですし、何よりも砂でできた丘が長い間崩れずに高さを保ってこられたはずはありませんよね(^o^)。それにこんな山ができるほどの大量の砂がいったいどこからきたというのでしょうか?
幼いころに砂場や砂浜で造った砂山や砂の像を考えてみれば分かるように、砂で作った形などはすぐに崩れて形を変えてしまうではありませんか。タケミナカタを祀る神社を乗せたこの山が、長い年月に渡ってその形と高さを保ってきたのであれば、これは自然にできた内陸砂丘などではなく、版築工法で人工的に造られた前方後円墳なのではないかと私は考えたのですが・・・・。
関東にもたくさんの「諏訪」や「諏訪神社」があるようで、この神社のある所を地図で調べてみたら、ここもすぐ東に「諏訪」の地名がありましたから、昔は諏訪神社のあるこの一帯も「諏訪」だったのではないでしょうか(^o^)。
そしてこの神社もタケミナカタを祀っていましたから、市町村合併などで地名が全く違うものに変わってしまったり、合祀などで神社名が変えられたり、故意に祭神が差し替えられたりしていなければ、古い神社と地名と祭神はちゃんと論理的にスジが通っているのです(^o^)。
和光市諏訪の諏訪山と諏訪神社は、その諏訪山(古墳)が明治時代に村人によって崩されて畑にされてしまう前は、ちょうど加須市の諏訪神社のこの「内陸砂丘」とよく似たものだったのではないでしょうか(^o^)。この内陸砂丘(古墳)も土取りなどでかなり崩されてしまったようですから、元はもっと大きくて地元では「諏訪山」と呼ばれていたのかもしれません。ひょっとすると和光市の諏訪山と同じような銅鏡なども出土していて、誰かがそっと隠したか売ってしまったのかもしれませんね(^_-)。
この加須市の諏訪も、古代には和光市諏訪と同じように古東京湾の海辺だったのです。周辺には真っ平らな広大な水田地帯が広がり、そこここに小浜・浜町・水深・船越・油井ヶ島・篠崎・花崎・戸崎・川崎・神戸などの海に関連するような地名が多く残っていて土地の来歴を語っています。大量の砂があったとすれば、それはこの平地が海であり、ここに砂浜があったからでしょう。やはり地名はその土地の昔の地形や歴史を語る「時の化石」であり、「歴史の証人」だったようですね\(^o^)/。
私は、たまたま通りかかったこの神社しか見ていないのですが、この125号線沿いには、塚状の神社がたくさんあるのだそうで、馬内諏訪神社の少し東にもやはり塚状小山の上に造られた「秋葉宮」があるそうですが、それらの塚状のものは、建物を乗せたまま現在まで形を保ってきているのですから、それらはみな版築工法で造られた古墳なのではないかと私は思うのですが(^_-)。
この地に進出したタケミナカタの子孫達は、古東京湾の水が退いた跡の広大な湿地で開拓に励んで子孫を増やし繁栄したので、お墓(古墳)と祖廟がたくさん造られたのではないでしょうか(^o^)。