2016.3.22 池生神社38 諏訪神社とトミ神社
埼玉県に諏訪神社はいくつあるのだろう?と調べてみたら、なんと73社もあり、加須市だけでも加須市戸室1231・加須市戸崎2388・加須市正能200-1・加須市串作854・加須市諏訪1-8-4と5社あるようで、他に諏訪社が加須市上高柳52と加須市馬内50に2社あるようです。
諏訪社と諏訪神社はどう違うのか分かりませんが<(_ _)>、いずれにしてもタケミナカタの子孫達と出雲族は関東にも進出し、埼玉県内にはまんべんなく広がって開拓に勤しんでいたようです(^o^)。
太古には深い海の底であり、1200万年前には巨大ザメのカルカロドン・メガロドンが泳ぐ海で、縄文時代には古東京湾の奥の浅い入り海になり、8世紀にはいくつもの大きな沼や湿地になっていた埼玉県の広大な平野部は、無尽蔵と言っていいほどに開拓の余地があり、先住の人々を征服して土地を奪うのではなく、使い道のなかった湿地を開拓することで多くの富(食料)をもたらしたタケミナカタの子孫達は、進出した先々で「開拓の神」と崇められたのではないでしょうか(^o^)。
諏訪では「南方刀美神社(ミナカタトミノカミノヤシロ)」(現・諏訪大社前宮)に祀られていたタケミナカタの「刀美」はやはり「富」で、「御名方富の神」だったのだろうと思います(^o^)。
その頃、異母兄の五十猛命やその子孫が大国主となっていたヤマトは「トミの里」と呼ばれていたようで、天津族に滅ぼされた最後の大国主を『古事記』は「トミノナガスネヒコ」と記しています。
この「トミ」には登美・鳥見・等彌・等弥などさまざまな文字が当てられていますが、これも「富」であり、古代には入り海で2~3世紀頃には水が退いた跡が一面に葦の茂る「葦原中国」となっていた奈良盆地の葦原を開拓して「富の里」にしたということではないでしょうか(^o^)。
『古事記』が「紀元前に神武天皇が日下江まで船で攻めて行った」と記した「神武の東征」は、実際は4世紀末の崇神天皇の時のことで、その頃の大阪平野は現在の170号線の孔舎衙(くさか)の辺りまで海であり、奈良盆地もこの難波の海に繋がる入り海だったのです。
↓は縄文海進期の、今より60m高い所を海岸線と想定してみた地図ですが、6世紀初めに大仙古墳が造られた頃には海面は15m以下まで下がっていたようです。
櫻井市の等彌神社 こちらは鳥見山にあり、祭神は大日孁貴尊
奈良市石木町の等弥神社 こちらは富雄川の東岸にあり、祭神は高皇産霊神と誉田別命になっています。
けれど諏訪神社が示しているように、地名と神社名と祭神には論理的な因果関係があるのです。トミの里に造られたトミ神社が『古事記』の創った架空のカミサマや、それぞれ何の因果関係もないカミサマをバラバラに祀っていたはずはありません。トミの里のトミ神社と杵築神社はトミの里の支配者の祖廟として造られたものであり、素戔嗚やその子孫の大国主を祀っていたはずなのです。