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池生神社34 物部守屋神社

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2016.3.16 池生神社34 物部守屋神社

 

「守矢氏は物部守屋の次男の子孫である」という珍妙な「説」の元は、「守屋山」の名前とこの山の中腹にある「守屋神社」だろうと考えたのには理由があるのです(^_-)

 

去年9月に大鹿村に向うために、そうとは知らずに「古そうな道だから」という理由で選んだルートは、本宮の「ご神体」とされている守屋山の杖突峠を越える道で、中央構造線の刻んだ谷を通る道でした(^o^)

 

急な峠道を上りきって下っていく途中に鳥居があり、「守屋神社」の石柱が見えたので、ああこの山は守屋山だったのか、守屋山にある神社だから「守屋神社」なのだろう、それでは祀られているのは「洩矢神」なのかな?と考え、確かめようと立ち寄ってみると、鳥居には「物部守屋神社」と刻まれていました。


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どうしてこんな所に物部守屋神社があるのだろう?祭神は洩矢神ではなく物部守屋なのだろうか?と疑問に思って由緒を探してみたのですが、それらしいものも何の説明もなく、何を祀っているどういう神社なのか全く何も分かりませんでした<(_ _)>

 

早朝で、ここに来るまでの山道では人にも車にも逢わなかったのですが、この神社の周辺には5~6台の車が駐車していたので、神社で何か催しがあって地元の人が集まっているのであれば神社についてお話を聞けるかもしれないと思ったのですが、車があるだけで人の気配は全くありません。車に乗って来た人達はいったいどこにいるのだろう?と周辺を見回すと、↓の札がありました。

 
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 ここは「片倉地区」というようだけれど、片倉地区以外の人は入山してはいけないというのはどういう意味なのだろう?としばし考え、ひょっとすると「片倉財産区」というのは片倉地区の入会地で、地区以外の人はこの山で山菜採りやキノコ採りをしてはならないという意味かもしれないと思い、季節柄この車の人達はキノコ採りに山に入っているのではないかと考えてしばらく待ってみたのですが誰も戻ってこなかったので、この神社については結局何も分からないまま先を急ぐことにしました<(_ _)>
 

ところが最近になって「神長官家の古墳は物部守屋の次男の武麻呂の墓である」という珍妙な「説」があることを知って謎が解けてきました\(^o^)/。

 

道沿いにあった石柱は「守屋神社」となっていたのに、鳥居の扁額は「物部守屋神社」となっていて、「物部連比良麿謹書」と刻まれていたので、物部連比良麿という人は武麻呂の子孫で、ここに武麻呂を祀る祖廟を造ったのだろうか?と考えて物部連比良麿がいつ頃の人なのかを調べてみると、この人は明治時代の人であることが分かりました。この扁額が掲げられ、「守屋神社」が「物部守屋神社」という名前に変ったのは明治時代のようです。

 

やはり守屋神社や神長官家の古墳は物部氏や武麻呂とは全く関係がないようで、この神社が「物部守屋神社」になったのは、本宮が「諏訪大社」と名前を変え、建御名方命を祭神とするように強要されたのと同じ頃で、『古事記』と『古事記伝』を元に「国家神道」をデッチ上げた神祇官たちの工作の一つだったのではないでしょうか?

 

「神長官家の古墳は物部守屋の次男の武麻呂の墓であり、守矢氏は武麻呂の子孫である」という非論理的な珍妙な説は、神祇官が神長官の世襲をを廃し、本宮をタケミナカタを祭神とする諏訪大社に変え、この神社を「物部守屋神社」としたことから生じたもののようです(^_^.)


 
 
 

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