2016.3.17 池生神社35 物部守屋神社2
「物部守屋神社」は物部守屋を祀る物部氏の祖廟でも、ミシャグチ様を祀る守矢氏の祖廟でもないようです。それでは誰が誰を祀った祖廟でなぜ守屋山に造られたのでしょうね?
それを推理するヒントは↓の写真にありました。
するとこの神社は片倉辺命の子孫がこの地を拓いた祖である片倉辺命を祀った祖廟で、祭神は明治時代に神祇官がデッチ上げた「物部守屋」ではなく、タケミナカタの息子の「片倉辺命」だったのではないでしょうか(^o^)。
諏訪湖の釜口付近が崩壊して天竜川の流出口ができた後、諏訪湖から流れ出した大量の土石流によって水浸しになった伊那盆地は、2~3世紀には広大な湿地になっていて、タケミナカタの息子の片倉辺命はこの湿地を開拓して田を拓き、「伊那の開拓の神」として祀られていたのではないでしょうか。意岐萩命(オキハギノミコト)が「佐久の開拓の神」として佐久の新海三社神社に、池生命(イケノウノミコト)が「富士見町の開拓の神」として富士見町の池生神社に祀られているように(^o^)。
ところで、片倉地区はどういう所なのかについて調べてみたら、この守屋山の中腹の片倉地区は「その昔は海の下で、今でも二枚貝、巻貝、カキなどの化石が出るロマンに満ちた歴史ある地区です。」と記されていました。
↑を見ると、地区の人たちにとっても この神社は「守屋神社」であって、明治時代にデッチあげられた「物部守屋神社」ではないようです\(^o^)/。
私はここまで地球規模の地形の変化と日本の古代の地形を考えることで、既存の歴史解釈のように「恣意的につじつまを合わせる」やり方ではなく、論理的に古代史の謎を解いてきたのですが、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」について「あきれ返る以前のでたらめ。表紙の地図1枚で酷さが解る。」とアマゾンにレビューをお書きになった方がいらっしゃいました。内容が理解できなかったゆえの根拠のない誹謗中傷のようですが、和田昭充先生がお書きになっていた「批判者の大半は、月並みの生半可な理解しかできない輩だ」というのは、こういうことなのでしょうね(^_-)。
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片倉地区は、現在は「高遠藤澤区片倉」となっているようですが、この神社から152号線を伊那盆地の方へ下って行く途中には「高遠町塩供」という地名もありました。「その昔は海の下」だった長野県は「塩」とは縁が深いようで「塩」の付く地名がたくさんあるのです(^o^)。でも、この写真を見て「その昔は海の下でした」と言われても俄には信じられないでしょうけれどね(^_-)。
藤沢区というのはここを流れる藤沢川から付いた地名でしょうか。この辺りでは大きな川となっている藤沢川は守屋神社の辺りでは小さな細い川で、水辺には東京では準絶滅危惧種になっているツリフネソウがたくさん咲いていました(^o^)。