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池生神社32 守矢氏は守屋氏?

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2016.3.14 池生神社32 守矢氏は守屋氏?

 

↑の記事によると、神長官家にある7世紀の古墳は、守矢家の伝承では物部守屋の次男である武麻呂の墳墓と伝えられているのだそうで、崇仏戦争で蘇我馬子に敗れて守屋山に逃れた物部守屋の次男の武麻呂の子孫が守矢一族だということなのですが、これは変ですよね(^o^)

 

聖徳太子・蘇我馬子と物部守屋が戦って守屋が敗れたとされている「崇仏戦争」は不比等が創作したオハナシで、実際は応神系王族と崇神系王族が王位を争った「丁未の乱(ていびのらん)」だったのですが、この事件が起きたのは飛鳥時代の6世紀のことです。

 

諏訪には「初代神長官はタケミナカタと共に諏訪祭政体を始めた」と伝わっており、学者さんたちが信奉する『古事記』は、そのタケミナカタがタケミカヅチに敗れて諏訪に逃げて来たのは天孫が降臨する前の神代だとしているのですから、『古事記』を根拠にするなら守矢氏の祖先は神代から諏訪にいたことになりますよね(^_-)


『古事記』によらないここまでの推理と現場検証では、タケミナカタが出雲から諏訪にやって来て田を拓き稲作を広めたのは、弥生時代の23世紀のことであることが分かりました。『古事記』によってもよらなくても、守矢氏の先祖は4世紀末に天津族が東征してくる以前から諏訪にいたのですから、物部守屋が洩矢神(守矢氏)の子孫だというのであればともかく、守矢氏が6世紀の武麻呂の子孫のはずがないではありませんか(^o^)
 

これは、誰かが「モリヤ」という音(おん)から守矢氏と物部守屋を関連付けて解釈し、明治6年に神長官の世襲が廃されて神長官が76代に渡って一子相伝で伝えてきたことを後世に伝えることができなくなってしまったため、それが「守矢家の伝承」ということになってしまっているということなのではないでしょうか。


洩矢も守矢も守屋も「モリヤ」という音に当てられた文字(万葉仮名)であって、文字自体が意味を持つわけではありませんし、そもそも「守屋」は物部守屋の「名前」ではありませんか(^o^)。守矢氏が物部守屋の息子の武麻呂の子孫であるなら「物部氏」か、名前をとるなら「武麻呂氏」になったはずで、「モリヤ(守矢)氏」になることはないだろうと私は思うのですが(^_-)、なぜ物部武麻呂の子孫が「物部氏」でも「武麻呂氏」でもなく「守矢氏」なったと考えたのでしょうね?


誰が考えだした「説」なのか分かりませんが、語呂合わせ、つじつま合わせの論理性のカケラもない解釈だとは思いませんか?この「珍妙なつじつま合わせの解釈」の元は、たぶん「守屋山」の名前とこの山の中腹にある「守屋神社」だろうと私は考えているのですが(^_-)

 

ネコビタイ便り

 

今日は冷たい雨が降っていますが、ふくらんできた蕾にとってはこの雨は「催花雨」であり、明日太陽が出て気温が上がればカタクリは咲き始めてしまうかもしれませんね(^o^)


カタクリの斜面にはニリンソウや小さなスイセンやホトケノザが咲いていて、ノカンゾウの芽もたくさん出ていました。

 
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ネコの額ほどの庭でも、クリスマスローズの花が咲き、チオノドクサの蕾が出て、バラの新芽も元気に伸び出しています。

 
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