2016.3.8 池生神社27 諏訪大社 前宮の本殿と本宮の拝殿
本宮に本殿がないのは、本宮は16世紀末に諏方頼広が造った諏方氏の神社だからでしょう。先祖を祀る務めは「名負いの氏」であるその子孫が負うものであって、赤の他人である諏方氏には「タケミナカタとヤサカトメ」を祀る理由はありませんから、1587年に「大祝家」を興した諏方頼広は、他家の祖廟である本殿は元の場所に残したまま、中州に新しく本宮と居宅を造って移り、ご神体は山だということにしたのかもしれません(^o^)。『延喜式』にも記されている格式の高い神社の大祝の地位には就いたものの、諏方頼広はタケミナカタ(南方刀美神?)とも、ミシャグチ様ともなんの血縁関係もなかったのですから(^_-)。
血縁関係がないどころか、神八井耳命(タケミカヅチ)の子孫の諏方氏は大国主を滅ぼした天津族の子孫であり、洩矢の人々が「生神」や「開拓の神」として崇め、長い間代々の神長官と諏訪を共同統治してきたタケミナカタの子孫達から国を奪った敵だったのですから、諏方氏が「タケミナカタとヤサカトメ」を祀ったりするはずはありませんよね(^_^.)。
実は本宮に行った時、私はご神体だという守屋山がどこにあるのか分からなかったのですが、今調べてみたら守屋山は南にあるのに本宮の拝殿は東を向いていたのだそうです。けれど本当に守屋山をご神体としているなら、カミサマにソッポを向くように拝殿を造るはずはありませんから、「山をご神体として祀っている」というのはやっぱりウソのようです(^_-)。
案内図を確かめてみたら、確かに拝殿は山とは90度ずれた方向を向いていましたが、この案内図は上が南になっていたのですね。
ところで、大祝だったタケミナカタ一族の墓所は前宮の上方にあって「みだりに近づいてはならぬ神域」とされて来たのに、「屋敷の西南にあった神長官家の墓所は大祝家の墓所になったので、守矢家のお墓は熊野堂に移った」というのはどういう事なのだろう?と疑問に思ったのですが、この大祝とはタケミナカタ一族のことではなく16世紀末に大祝になった諏方頼広のことで、神長官家はその諏方頼広に本来の墓所を奪われたということのようです<(_ _)>。
「諏訪大社の大祝」は「神長官家」と同じように一つの家系だと思ったので意味が分からなかったのですが、上社の大祝はタケミナカタの子孫から平安時代には「神氏」を名乗った金刺連有員の子孫の諏訪氏に、さらに16世紀末には「大祝家」を名乗った諏方氏に変わっていたのです。有員の子孫は諏訪頼重まで19代、諏方頼広の子孫は平成まで15代続いたようですが、平成14年に15代大祝の諏方氏が亡くなられて大祝家は消滅したのだそうです(T_T)。
弥生時代からこの地の支配者であった守矢氏と、16世紀末に大祝家を名乗って中州で力を揮い始めた諏方氏の間には墓所を奪ったりするような権力争いや対立があったようですが<(_ _)>、この対立に関しては↓の記事がありました。
短期の旅行者などには到底知り得ないディープな記事ですが、これも地元のyatsu-genjinさまがお調べになった記事でした(^o^)。事実かどうかは分かりませんが、このような話が伝えられるような根深い対立があったということなのでしょうね。このように細部まで分かって来ると歴史の論理的な因果関係が見えてくるのですが、守矢史料館に行った時には、私は今ここに書いているようなことをまだ何も知らなかったので、しおりにある古墳も墓所も、yatsu-genjinさまの記事にあるような様々なものも自分で見て確かめることはできませんでした<(_ _)>。
「視覚を真に司るのは知識」であって、知らないものや意識に無いものは、目の前にあっても見えない(認識できない)のです(T_T)。それでもこの時撮った写真のどこかに何か写っているかもしれないと探してみたら、↓の写真に生け垣が写っていました。
生垣の右手が史料館、ミシャグチ様は左奥です
これがyatsu-genjinさまの記事にあったイチイの生垣で、この中に「守矢家の屋敷神」と「大祝の恨み」に対抗するために設置したという祠があったのかもしれません。覗いてみればよかった~(^_-)。いつかまた機会があったら確かめてみたいものです。