2016.3.2 『美貌の女帝』
少し前の新聞に永井路子著『美貌の女帝』の紹介があったのですが、そこに載っていた平城京の写真を見て、美貌の女帝ってどの女帝のことだろう?どうして美貌だったということが分かったのだろう?と疑問に思いつつ記事を読んでみました(^o^)。
美貌の女帝とは元正天皇のことだったのですが、この記事の「(平城宮跡)の原っぱに立って往時に思いをはせてみるが、自分の古代ロマン感知器は反応しない。謎の石像物が多い飛鳥京周辺や、二等辺三角形に並ぶ大和三山に囲まれた藤原京周辺を訪れると感知器のメーターは振りきれそうになるのに、ここではなぜか『圏外』だ。」という部分を読んでおや?と思いました。
実は2011年に初めて平城宮に行ってみた私も全く同じように感じたのです(^_^.)。平城宮の辺りは地形的にも平板で違和感があり、興味をひかれるものは何もなかったので、がっかりして新幹線の予定を繰り上げて帰ってきてしまいました<(_ _)>。
ところが2012年に大阪のみつさまから「平城京興味深くて大好きな町なんですよ!」とのコメントを戴いて、「え~?どこが?」と疑問に思ったことが「不比等と奈良ホテル」の考察に繋がっていって、疑問に思ったことの因果を延々と繋いでいったら、学者さんたちの「定説」とは全く違うものが次々に見えてきてしまったのです(^o^)。
あり得ないようなことでも「文献にある」ということだけを根拠に「事実」としてしまう学者さんのつじつま合わせの説よりも、人間を描く歴史小説の方が事実に近いのではないかと常々感じていたのですが(^_-)、平城宮は「圏外」という同じ感覚にひかれてさっそく読んでみた『美貌の女帝』は「定説」よりもこのとき見えてきたものに近い内容で、持統・元明・元正の三代の女帝と不比等(藤原氏)との権力と血統を巡る陰惨な戦いが描かれていました。
聖武天皇・安倍内親王(のちの孝謙・称徳天皇)・犬養三千代・橘諸兄らに対する見方や、大津皇子を死に追いやったのは持統天皇であるとしていることや、不比等の動機を壬申の乱への復讐としていることなど、いろいろ見解の相違はありましたが、三代の女帝の時代は不比等(藤原氏)との権力争いであったという見方は、学説や定説よりずっと納得できました(^o^)。
私は「氷高皇女(のちの元正天皇)と長屋王の間にあったかもしれない恋愛感情」などには全く思いが至らなかったのですが<(_ _)>、これは人間を描く小説家ならではの血の通った見方でしょうか(^o^)。
この小説では、三代の女帝は天智と鎌足によって謀殺された石川麻呂の血を引く蘇我の娘たちで、蘇我の娘たちが天皇の妻や母になってきたという伝統を守るための戦いであり、その伝統は不比等の娘の藤原宮子を母とする聖武天皇の即位で途絶えたとしているのですが、私は、彼女たちが守ろうとしていたのは「蘇我の娘たちが天皇の妻や母になる」という伝統ではなく、5世紀後半から応神―ウジノワキノイラツコ―欽明―馬子(アメノタリシヒコ)―蝦夷(倉麻呂)―入鹿(石川麻呂)―天武と繋いできた応神系王族の王権の継承であろうと思います。
この系譜の説明は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をご参照ください。アマゾンヘ
そしてそれは、藤原宮子を母とする聖武天皇の即位によって途絶えたのではなく、聖武天皇の娘の安倍内親王(孝謙・称徳天皇)が藤原氏に暗殺されたことによって応神系の天皇が絶え、藤原氏の策謀によって天皇に就いた白壁王(光仁天皇)以降は崇神系の天皇になったのです。
石川麻呂は、本当は「豪族の蘇我氏」などではなく応神系の大王(天皇)であり、天武天皇は倉麻呂の子で石川麻呂の異母兄弟だったのです。そして天智天皇の娘であることが強調されてきた持統天皇は、石川麻呂の娘の越智娘を母とする石川麻呂の孫であり、文武天皇は石川麻呂の曾孫ですから、文武天皇の子の首皇子(聖武天皇)も聖武天皇の娘の安倍内親王も石川麻呂の血を引く応神系の王族だったのです。
この人間関係と婚姻関係はとても複雑なので、それを考慮してか『美貌の女帝』には系図が何ヶ所にも入れられていましたが、これが理解できないと小説もよく分からないでしょうし、『記紀』の謎も解けないのです(^_-)。
つまり、この時代に藤原氏によって次々に殺された大津皇子・草壁皇子を始めとする長屋王・その妻で元正天皇の妹の吉備内親王とその息子達・聖武天皇の子の安積親王・井上内親王とその子の他戸親王・安倍内親王らはみな石川麻呂の血を引く応神系の王族だったのです。
このことを頭に置いて『美貌の女帝』を読むと、この時代にどのような権力闘争が行われていたのかがよく分かります。まるで韓国歴史ドラマそのもののようで、その陰惨さには本当に気が滅入ってきますけれどね~(T_T)。