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池生神社21 タケミナカタのお墓?

2016.2.27 池生神社21 タケミナカタのお墓?

 

うっかりしてしまいましたが『古事記伝』を著した本居宣長は、歴史学者ではなく国学者でした。国学というのは事実かどうかには無関係な「思想」であり、宣長の『古事記』解釈は、その思想のための解釈だったようです<(_ _)>

 

歴史学とは歴史的事実に基づいたものなのだと私は思い込んでいたのですがそうではなく、「歴史的な事実」であるかのように誰かが記したこと(=文献)を、その真偽を確かめることなく既定の事実として解釈する学問だったようだということがここまでに分かってきました。そしてその解釈の元になっているのは非論理的な『古事記』や『古事記伝』なのです<(_ _)>

 

1300年前の『古事記』のウソと、それをカミサマの話として解釈した『古事記伝』と、その非論理的な『古事記伝』を元にデッチ上げられ国民にすり込まれた「国家神道」や「皇国史観」は、現代の歴史学者さんたちにもしっかりと染みついているようですね<(_ _)>

 

閑話休題。2009年に初めて諏訪大社に行った時、前宮のある辺りが神殿(ごうどの)と呼ばれていて、その上方に古墳があることを案内図で知って、神殿とはタケミナカタ(ヤシマジヌミ)の宮があった所で、その上方に造られた古墳はタケミナカタのお墓なのではないか?と考えました。

 

諏訪大社前宮史跡案内図 

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イメージ 1

小さくて見えにくいかもしれませんが、前宮の上の方に、円墳のような絵が二つ描かれていて「古墳」と記されています。

 

でもその時にはそこまでは行ってみなかったので、実際はいつ頃造られたどのくらいの大きさのどんな古墳なのだろう?と調べてみたら、古墳そのものの写真や情報は見つからなかったのですが、代わりに↓の記事が見つかりました(^o^)

 

この記事によれば、地元では「前宮のおやま(土地の者はおやまと言う)の東部に諏訪大明神の御神陵が鎮まる。そして、その御神陵西部、前宮の拝殿となっている御霊位磐の正面が后神(きさきがみ)八坂刀売命の御神陵であり、前宮のおやま全域は古代大祝一族の神霊鎮まる墳墓であって、露出している岩石はみんな神族を埋めたとき置いた墳墓の「瑩石(たまいし)」とみてよい。」と伝わっているようです(^o^)

 

諏訪大明神とはこの地で生神(大祝)の地位に就いたタケミナカタのことですから、地元にはその古墳はタケミナカタとそのお后のお墓で、その一帯は生神様一族の墓所だからみだりに近づいてはならないとしっかりと伝えられていたのですね。

 

そして、「神長官 守矢史料館のしおり」には、中世まで神殿(ごうどの)には大祝が住んでいたと記されていましたから、「神殿とはタケミナカタ(ヤシマジヌミ)の宮があった所で、その上方に造られた古墳はタケミナカタのお墓なのではないか?」という推理の裏付けは取れたようです(^_-)

 
 

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