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池生神社19 諏訪大社大祝・諏訪氏と金刺氏2

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2016.2.25 池生神社19 諏訪大社大祝・諏訪氏と金刺氏2

 

それでは、6世紀に下社の大祝となった金刺氏と、平安時代になって上社の初代大祝になった神氏の諏訪氏とはどういう関係なのだろう?と思ったら、「はじめに」の最後に「神氏系図」が載っていました。

 

神氏系図 

イメージ 1

でも、「神氏」は「生神」として上社の大祝になったタケミナカタの子孫達が「神族」として名乗って来た氏族名なのに、この「神氏系図」は変ですよね。タケミナカタの系譜ではなく、金刺氏の乙頴の系譜になっています<(_ _)>。そして諏訪大神大祝の乙頴から8世孫までは「御衣木祝(みそぎほうり)」となっているのに、9世孫の有員(ありかず)の時に突然「諏訪上社大祝・神氏」と記されているのです。

 

乙頴の子孫は諏訪大社大祝を世襲していたそうですが、この系図を見ると、8世孫の代までの乙頴の子孫の金刺氏が世襲していたのは下社の御衣木祝で、9世孫の有員の時に初めて上社の大祝となって「神氏」を名乗ったようです。

 

乙頴が諏訪大神大祝になったのは6世紀末の用明期ですから、その9世孫の時代というとそれから200300後の平安時代ということになりますね。すると「武田信玄の義父」の諏訪頼重の19代前の、平安時代に上社の大祝になった「神氏・諏訪氏」の初代とはこの乙頴の9世孫の有員のようです\(^o^)/。

 

「金刺連」となった「オオ氏」の一族で、下社の「御衣木祝」家の一員だった有員は、上社の大祝になって(なるために?)「神氏」の一族の「諏訪氏」を名乗ったようです。タケミナカタの子孫の「神氏」だとか、桓武天皇の子孫だとか、清和源氏の源満快の子孫だとかと名乗っていたという諏訪大社大祝の「諏訪氏」は、そのいずれでもなくタケミカヅチの子孫だったのです(^o^)

 

諏訪大社の大祝は、平安時代に「初代大祝となったタケミナカタ」の子孫からタケミナカタの子孫達を滅ぼした天津族のタケミカヅチの子孫に変わっていたのですね。

 

金刺一族が9世孫の有員の代まで上社に入れなかったのは、「諏訪評督倉足も大祝乙頴も、諏訪旧来の祭祀圏に入るのは困難であったとみられる」とこの本には記されていましたが、さもありなんと思います(^o^)


上社の周辺にはタケミナカタがやって来るずっと前からここに住んでいた洩矢の人々と神長官がいて、湿地や葦原を開拓して田を拓き、稲作を広めて諏訪を豊かにしたタケミナカタとその子孫を「生神」や「開拓の神」として崇めてきたのに、天津族はその一族を滅ぼしてすべてを奪ったのですから。

 

上社の大祝になった時に、タケミカヅチの子孫の「オオ氏」だった有員が、「神氏」を名乗ったのは、タケミナカタの子孫を装ったということでしょうか(^_-)ひょっとすると神長官家が1800年もの間一子相伝で密かに伝えてきた「大祝と神長官の歴史」にはこういう内容も含まれていたのかもしれませんね(^_-)

 

2009年まで諏訪大社について何一つ知らず、どこにあるのかさえ分からなかった私ですが(^_^.)、諏訪大社はなぜ4つもあるのか?上社と下社の大祝はなぜ異なる氏族なのか?大祝の金刺氏・諏訪氏とは何者で、両者はどういう関係なのか?など次々に湧き上がってくる疑問について調べてみたら、やはりそれらはすべて論理的な因果関係で繋がっていたことが分かりました\(^o^)/。

 

ここまで学者さんたちの信じられないような思い込みや強引なつじつま合わせに遭遇するたびに「だから、僕は歴史家には呆れ返るのさ。彼らときたら、一つの事態の納得性ということに関して何にも考えてみようとしないらしい。」という『時の娘』のグラント警部の言葉をいつも思い出していたのですが(^_-)

 

歴史学者さんたちの常套手段である「・・・と考えてよい」、「・・・とすればよい」という非論理的なつじつま合わせを使わずに歴史の因果を丹念に繋いでいけば、謎は消えてすべては自然に論理的に繋がってくるのです(^o^)

 

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