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池生神社18 諏訪大社大祝・諏訪氏と金刺氏

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2016.2.24 池生神社18 諏訪大社大祝・諏訪氏と金刺氏

 

ここまで検証してところでは、世界史と日本史全体の流れから見ても、信濃に残されている様々な遺跡や伝承から見ても、地球史や人類史の因果関係のつながりから見ても、「守矢史料館のしおり」に記されていたことに矛盾は見られないようですから、その内容はかなり信憑性が高いようです(^o^)

 

「阿蘇氏系図」から分かることは、6世紀に科野国造となったのは、前宮に住んでいたタケミナカタの子孫の大祝ではなく、天津族の王族の麻背君だったということですから、タケミナカタの子孫たちはこの頃までに長い間に渡って開拓してきた信濃国を全て天津族に奪われてしまったようです(T_T)。富氏が一子相伝で伝えてきた「大国主一族と天津族との長い抗争の歴史」にはこの諏訪での抗争も含まれているのでしょうか?

 

『古事記』の神話に合わせて作られた系図は、自分たちが支配者階級(搾取階級)であることの根拠として『古事記』のカミサマを始祖に据えて創られたものですから、4世紀以前の神からの系譜の部分は創作なのですが、それ以降の後世の系図もあまりあてにはならないようです(^_^.)。平安時代に大祝になった諏訪氏はタケミナカタの子孫の「神氏」を名乗っていたようですが、その後桓武天皇を祖とするとか、清和源氏の源満快を祖とするとかと称したこともあるそうですし、秀吉のように近衛前久(本姓・藤原)の猶子になって藤原氏の系図に加わったり、家康のように系図を買って自分の名前を書き加えることで清和源氏の系図に加わったりすることもあったようですし(^o^)

 

何百年も何千年も前の祖先が誰かなどということは誰にも分かりませんし、確かめる方法もありませんから、カミサマの子孫だとでも天皇の子孫だとでも書いたもの勝ち、言ったもの勝ちのようですね(^_-)

 

そういえば、先日「熊沢天皇」という人がいたという話を聞いたのですが、それはどういう人だったのだろう?と調べてみると、熊沢寛道という人で、1946年にはこの人の他にも南朝の正系の熊沢天皇と称する人が4人、熊沢天皇ではない南朝の天皇と称する人が数人いたのだそうです(^o^)

 

系図はどのようにでも作れるようですから、彼らの主張が本当だったのかどうかは分かりませんが、人は誰でも誰かの子孫なのですし、人類史をその発生まで遡っていけば皆繋がってしまうようですから、全くのウソとも言い切れないかもしれません(^_-)

 

ところで昨日、阿蘇氏系図から麻背君は天津族の王族で崇神天皇の子の神八井耳命(タケミカヅチ)の子孫のようだと推理しましたが、この系図の県王のところには「五世孫大気麻呂賜姓金刺連 其玄孫貞長賜姓不太朝臣」と添え書きがあるそうですから、やはり麻背君はタケミカヅチ(建借間命)の子孫で「オオ氏」だったのですね\(^o^)/。


大井(意富比)神社由緒 
イメージ 1

 

倉足の五世孫(麻背君の六世孫)は↓の系図では「県主」となっていますが、この人の名前は「大(オオ)の気麻呂」で、この気麻呂の代に連(ムラジ)の姓(カバネ)を賜って「金刺連大気麻呂」になったようで、さらにこのページにはありませんが、その玄孫の代には朝臣の姓(カバネ)を賜って「太(オオ)の朝臣」になったようです。

 
阿蘇氏系図
イメージ 2
 

『古事記』に「タケミナカタはタケミカヅチに負けて諏訪に逃げた」というオハナシを書いたのは、タケミカヅチ(オオ氏)の身内の「太(オオ)の安万侶」だったのですね(^o^)

 

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