2016.2.23 池生神社17 諏訪大社大祝・金刺氏
2009年に諏訪に出かけてみたら、ますます分からないことが増えてしまったので、↓を買ってきたのですが、7年前には「はじめに」の最初のページが全く理解できなかったので、その先を読む気になれずツンドクにしてしまいました(^_^.)。今回読んでみて少し分かってきたこともあるのですが。
この本の「はじめに」は「上社の起源」から始まっていて、その起源が(確実性の高い資料だという)「阿蘇氏系図」で説明されていたのですが、この「神日本磐余彦(神武天皇)」から始まる系図には、その後裔の「金弓君」が欽明天皇の金刺宮に供奉して金刺舎人直姓となり、その子の「麻背君」が金刺宮に仕えて科野国造になり、「麻背君」の子の倉足が諏訪評督に、その弟の乙頴が諏訪大神大祝に任じられたと記されていると書かれていました。「麻背君」の兄の系統は伊那郡の主帳や大領に任じられていたそうです。
これを見ると諏訪祭政体を始めたのはタケミナカタと洩矢神ではなく「麻背君」の子の倉足と乙頴で、その時期も2~3世紀ではなく、6世紀の欽明期か用明期だということのようなので、それでは守矢史料館のしおり」に記されていた「神長官の話」はウソだということなのだろうか?と訳が分からなってしまったのです<(_ _)>。
でも、ここまでに神武天皇が東征をしたというのも紀元前660年に即位したというのもウソだということが分かりましたから、その神武天皇から始まっているこの系図の古い部分は創作(捏造)でしょう。けれど、その祖を神日本磐余彦(神武天皇)としていることから、この「麻背君(金刺氏)」はタケミナカタや守矢氏とは全く関係のない天津族の王族の子孫だということは読み取れますね(^o^)。系図とはその出自の証明のために創られたものなのですから。
阿蘇氏系図
これを見ると、麻背君は神八井耳命の子孫となっていますから、金刺氏はタケミカヅチの子孫のようです。すると、「国譲り神話」のタケミカヅチとタケミナカタが戦ったというエピソードは全くの作り話ではなく諏訪の攻防を反映したものだったのでしょうか(^o^)。
「神武天皇の子の神八井耳命」は「神代の国譲りのタケミカヅチ」であり、実際は4世紀の崇神天皇の子であったことについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をご参照ください。アマゾンヘ
麻背君は天津族の王族でタケミカヅチの子孫であり、6世紀に科野国造になったその一族は信濃に大きな力を持ったようですが、麻背君が天津族の王族だったのであれば、天津族の侵攻以前の諏訪の旧支配者だったタケミナカタをわざわざ神社を造って祀ったはずはありませんから、タケミナカタを祀る前宮は乙頴が大祝になって造られたのではなく、天津族の侵攻以前からここにあったのです(^o^)。
科野国造になった金刺氏が自らの祖廟として造ったのは、下社だったのではないでしょうか?下社の大祝は金刺氏となっていますね(^_-)。
下社・秋宮