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池生神社16 諏訪大社大祝・諏訪氏

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2016.2.22 池生神社16 諏訪大社大祝・諏訪氏

 

生神の大祝だった諏訪氏については、「頼重の時に直系が滅びた」ということなので、それはいつのことなのだろう?と「諏訪頼重」を調べてみると、

 

諏訪頼重:諏訪氏の第19代当主。諏訪頼隆の子。上原城城主。諏訪大社大祝(おおほうり)。武田勝頼の外祖父にあたる。

 

だそうで、武田信玄に敗けて1542年に甲府の東光寺で自刃したのだそうですが、これはちょっと計算が合いませんよね~<(_ _)>

 

1代を20年とすれば19代では380年、30年としても570年ですから、諏訪氏が頼重の19代前に大祝になったのであれば、その時期は頼重が自刃した1542年の4500年くらい前の1000年頃で平安時代のことであり、タケミナカタが諏訪にやって来た2~3世紀頃のことではないようです。

 

もし諏訪氏がタケミナカタの息子の代から大祝を世襲してきたのであれば、初代の大祝が1000年頃のはずはありませんから、諏訪氏はタケミナカタの直系の子孫ではないようですね(^_-)

 

タケミナカタと洩矢神が諏訪祭政体を始めた頃には、それぞれの祖廟を祀っていたのはそれぞれの子孫だったはずですが、4世紀末に東征してきた天津族によって大国主は滅ぼされ、大国主の傘下にあったクニグニは天津族に征服されてしまったのですから、この時に大国主の子孫達も殺されたり地位を追われたりしたのでしょうね(T_T)。「支配者(王)一族を殺して領土を奪い、奪ったものの中からその一部を手柄に応じて自陣営の者たちに配分する」というのが古代から繰り返されてきた「征服する」ということだったのですから<(_ _)>

 

大国主の一族はみな、それぞれの地で「開拓の神」として祀られていますし、諏訪には「先住民の洩矢の人々は新しく来た出雲系の人々によって虐げられたりはせず、大祝と神長官による新しい体制となった」と伝わっていて、実際に旧支配者だった洩矢神は殺されることもなく、その子孫の守矢氏は明治5年まで神長官を世襲してきたのですから、大国主の一族の進出は、それまで使われていなかった湿地を新たに開拓して自分たちのものとしたのであって、先住の人々から土地を奪ったり、先住の人々を奴隷にしたりする「征服」ではなかったようですが、天津族の東征は「神武の東征の戦い」や『常陸国風土記』の「先住民皆殺し」に語られているように征服だったのです。

 

茨城郡で先住民をことごとく殺したという黒坂命の墓(?)

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天津族の侵攻に際して抵抗せずに帰順し臣従した旧支配者はそのまま横滑りで国造に任じられたようですが、大国主の一族はそうはいかなかったのではないでしょうか。旧支配者の一族は皆殺しにするのが当時のやり方だったようですから、タケミナカタの直系の大祝は殺されてしまったかもしれませんし、もしも殺されずにすんだとしても諏訪の支配者である生神の地位に居続けることはできなかったでしょう。

 

するとタケミナカタの子孫が世襲していた禰宜太夫・権祝・擬祝・副祝も、天津族の征服以降は八杵命や池生命や片倉辺命の子孫ではなくなっていたかもしれませんね。今となっては知る術もありませんが、ひょっとすると最後の神長官が墓場に持って行ってしまった「他に洩らしてはならないこと」の中には、そんな内容も含まれていたのかもしれません<(_ _)>

 
 

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