2016.2.20 池生神社15 一子相伝4
神祇官によって明治5年に神長官の世襲が廃止されたあと、明治6年にはミシャグチ神の祭祀に用いた佐奈技(さなぎ)鈴だけを残して御宝印や鏡や刀などの守矢家の家宝は諏訪大社に移されてしまったのだそうです。つまり召し上げられてしまったということなのでしょうね(T_T)。
サナギ鈴
神長官の職は廃されても祖廟と祈祷殿が敷地内に残っている守矢氏は、現在もこの地にいらっしゃるわけですが、祝職も祖廟も祈祷殿も、すべてを神祇官に召し上げられてしまったタケミナカタの子孫達はその後どうしているのだろう?と気になったので調べてみると、↓の記事が見つかりました。権祝(ごんのほうり)だった池生命の子孫の矢島氏の邸は今も諏訪市中洲神宮寺に残っているようですが、もうここには住んでいらっしゃらないようです。
さらに擬祝(ぎのほうり)を調べてみると、↓の記事が見つかりました。
擬祝だった伊藤氏も、もうここにはいらっしゃらないようですね。
方倉辺命の子孫だという副祝(そいのほうり)は「守矢氏」となっていましたが、今は守矢氏の一族になっているということなのでしょうか?
↑の権祝矢島氏と擬祝伊藤氏につての記事を書かれたのは同じ方のようですが、ここまで調べて現場検証をしていらっしゃるのはさすが地元の方ですね(^o^)。私のような全く土地に馴染の無いヨソ者は、訪ねて行った先で入手した地元の方の研究資料や、たまたま聞くことのできた地元の方のお話や、地元の方から戴いたコメントなどで初めて知ることばかりなのです(^o^)。
でも、固定観念のない(ものを知らない)素人のヨソ者だから学者さんたちが「常識」だと思っていることに疑問を持ったり、『古事記』や『古事記伝』や「国家神道」と矛盾する事実のかけらに出会った時、常識(固定観念)でそれを否定したり、無視したり、つじつま合わせの解釈をひねり出したりする代わりに、その事実を素直に受け入れることができることも多いんですよね(^_-)。
例えば、「『古事記』の高天原は葛城の高天のことだ」と地元では信じられていたとか、
「葦原中国は自分達の住んでいる所のことだ」と地元の人は信じているとか、
「野見宿禰は出雲国の人ではなく大和国出雲村の人だった」とか・・・・(^o^)。