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池生神社11 諏訪大社の前宮と本宮

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2016.2.16 池生神社11 諏訪大社の前宮と本宮

 

藤森照信氏設計の守矢史料館の建物と地形とタケミナカタに関心を持ったので2009年に諏訪に行ってみようと思ったのですが、諏訪大社の場所などを調べているうちに、諏訪大社は4つもあるということや、諏訪大社には神主ではなく、他では聞いたことのない「神長官」がいたということや、御柱祭や御頭祭などの変ったお祭りがあることなど謎がいっぱいであることが分かってきて、おおいに好奇心と謎解き魂を刺激されることになりました(^o^)

 

史料館があるのは上社の方で、上社には前宮と本宮の二つがあり、守矢史料館はその二つのお宮の間にあったのですが、なぜお宮が二つあるのか、その二つのお宮は同じ神社なのか違う神社なのか、お宮とその間にある史料館とはどういう関係なのかなど疑問は増える一方だったので、答えを知るために買ってきた資料の中の一つが「神長官 守矢史料館のしおり」でした。

 

帰ってきてからそのしおりを読んでみると「諏訪大社の神長官は明治5年に廃止されてしまったけれど、タケミナカタがやって来て諏訪大社が造られた時から筆頭神官として神長の地位に就いていた守矢氏は、76代に渡って(諏訪大社の祭神のタケミナカタではなく)ミシャグチ様を祀ってきた」と記されていたので、ますます訳が分からなくなってしまいました<(_ _)>

 

このしおりの冒頭に記されていた78代守矢早苗氏の「守矢神長家のお話し」の「『古事記』に記されている国譲神話」とは全く別の「国譲神話」の言い伝えから『古事記』のウソが分かって、子供の頃の「瀕死のタケミナカタはどうやって諏訪まで行ったのだろう?」という疑問は解けたのですが(^_-)、その時新たに生じてしまった「前宮と本宮と神長官とタケミナカタとミシャグチ様の関係」の謎解きには2016年の今までかかってしまいました(^o^)

 

タケミナカタと、「生神である大祝」の地位に就いたその嫡流の子孫の宮があったのが前宮の神殿(ごうどの)で、神殿の上方に造られていたのがタケミナカタを祀る祖廟であり、前宮の北西に住んでいたのが洩矢神の子孫の神長官・守矢氏で、神長官邸に造られていたのがミシャグチ様を祀る祖廟であって、諏訪の共同統治者(?)となったタケミナカタの子孫と洩矢神の子孫は、それぞれの敷地に造った祖廟にそれぞれの祖先を祀っていたのです(^o^)

 

守矢氏の祖先の「もりやのかみ」は、しおりでは「漏矢神」ではなく「洩矢神」となっていました。

 

そして300年ほど前に、諏訪大社は山の斜面の手狭な所から、諏訪湖の水が退いて陸地になっていた神長官邸の北西の平地に造った新たな宮に遷され、そちらが本宮となったので、元の宮あった所は「前宮」と呼ばれるようになったのですね。

 

前宮の拝殿 

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本宮の現在の拝殿

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300年前はここまで諏訪湖だったことを示す本宮の波除鳥居

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波除鳥居の近くには「大国主命社」がありました

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本宮の勅願殿  

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この勅願殿は、古図には「祈祷所」と記されているそうですから、こちらがタケミナカタの子孫達の祈祷殿だったのでしょう。明治5年以降の神官は神社本庁から送り込まれた人達で、タケミナカタの子孫ではないため、祈祷殿ではなく勅願殿という名前になっているのでしょうか。

 

現在の宮司さんも神社本庁から任命された方のようです。

 
 

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