2016.2.17 池生神社12 一子相伝
洩矢神から現在までの守矢氏の78代の系譜
この系譜は、明治5年に神長官が廃止されるまで一子相伝の口伝で伝えられてきたもので、最後の神長官となった76代実久氏が初めて文字にしたものだそうです。
伝言ゲームなどの口伝えは、何人かを経ただけでまるで違う内容になってしまうのが普通なのに、1800年もの間本当に口伝えで間違いなく伝え続けることができたのだろうか?と信じられない思いもしたのですが(^_-)、人間の記憶能力は端倪すべからざるもののようです。
たまたま手元にあった古い新聞には、日本には円周率を何万ケタも暗唱できる「超記憶者」がたくさんいて、
1987年には友寄英哲氏(54才)が4万ケタ
1995年には後藤裕之氏(21才)が4万2195ケタ
2006年には原口證氏(63才)が何と10万ケタを暗唱して世界記録を作ったことが記されていました(^o^)。
この新聞は2009.9.6のもので、「日本の縄文人とアンデスの先住民は同じATL(成人T細胞白血病)ウィルスを持っていた」という記事と同じ紙面に載っていたのですが、このウィルスの記事から古代史考察がはからずも人類史の考察にまで行ってしまったんですよね(^o^)。
それはともかくとして、この超記憶者の記憶の能力を調べたところ意外なことに一般の人と大きな差はなかったそうですから、特殊な能力というわけではないようですし、上記の54才・63才という年令を見れば若くなければ記憶できないというわけでもないようですから、76代の先祖の名前を完璧に暗記するくらいのことは、使命感ややる気があればさほど大変なことではなかったのかもしれません。科挙の試験では、受験性は四書五経を全て暗記していたのですしね(^_-)。
この一子相伝の口伝は、真夜中に火の気のない↓の祈祷殿の中で行われていたのだそうです。
神長官家の祈祷殿
大国主の悲憤の生涯を一子相伝の口伝で伝えてきたという富氏も、やはり真夜中に火の気のない祖廟で伝えられたそうですから、一子相伝とはそのようにして真夜中に祖廟に祖霊を迎えて行われるものだったようです。
身を清めて、真夜中に火の気もない祖廟や祈祷所の暗闇の中で、一対一で厳かに行われた儀式だったのであれば、感覚は研ぎ澄まされ緊張と集中力は極限まで高まっていたのではないでしょうか。
もし「祈祷殿」が一族の歴史や秘密や秘儀を一子相伝で伝えるために造られたものであったなら、諏訪大社本宮の祈祷所も、明治5年まではタケミナカタの子孫の一子相伝のために造られたものだったのでしょうから、古図の「祈祷所」が現在は「勅願殿」とされているのは、やはり明治5年以降は神官がタケミナカタの子孫ではなくなってしまったからなのかもしれませんね。
タケミナカタの子孫の祈祷殿だった(?)本宮の「勅願殿」
ネコビタイ便り
パッションフルーツの3つ付いていた実の一つが落ちました。でも2つはまだツルについています。いったいいつまで付いているんでしょうね(^o^)?