2016.2.15 池生神社10 神氏
↑の池生神社の概歴には、池生命の神裔(子孫)は姓を神と称し、県内一円に散居し地方開拓の先達であったと伝えられている」とありますから、タケミナカタの子孫は代々開拓に励みながら支配地を四方に広げていったようですね。
この「姓を神と称し」の姓は「せい」ではなく身分や出自を表す「カバネ」でしょう。この時代には「せい」というものはありませんでしたから(^o^)。
このカバネの「神」は「カミ」ではなく「ミワ」と読むのかもしれません。ヤマトの最後の大国主・ナガスネヒコの息子の事代主を「大物主」として祀る「大神神社」は「オオカミ」神社ではなく「オオミワ」神社ですし、その神官となった事代主の子孫(皇別・神別の神別の方の子孫)は神(ミワ)氏、三輪氏、大三輪氏を名乗っていましたから(^o^)。ちなみに、意富比古命の娘のタマヨリ姫を母とする子孫の方は皇別氏族で「オオ氏(意富・大・太・多など)」を名乗っています(^o^)。
大井(意富比)神社の由緒に祭神の建借馬命(=タケミカヅチ)は意富氏であると記されていたのは、タケミカヅチの母が意富比古命の孫娘のイスズ姫だったからなのです(^o^)。搾取階級と被搾取階級を分ける根拠は出自と血統だけなのですから、誰の子孫なのかということや出自に関しては実に明確に記されているのです。
ところで、この概歴にある「諏訪大社権祝神姓矢島氏」の「神姓」は矢島氏のカバネのようですが、「権祝」というのは何だろう?と調べてみると、諏訪大社・上社には、生神である「大祝(おおほうり)」のもとに五官の祝(ほうり)が置かれていたのだそうで、その祝の職名のようです。
大祝(おおほうり)を世襲していたのは諏訪氏(神氏)で、諏訪氏もタケミナカタの子孫だそうですが、生神の地位を世襲したのはタケミナカタの嫡流でしょうから、長子の建御名方彦神別命(タケミナカタヒコガミワケノミコト)とその子孫でしょう(^o^)。そして五官の祝(ほうり)とは、
神長官(じんちょうかん)(古くは神長(かんのおさ)):守矢氏
禰宜大夫(ねぎだゆう):小出氏(八杵命の子孫)
権祝(ごんのほうり):矢島氏(池生命の子孫)
擬祝(ぎのほうり):小出氏のち伊藤氏
副祝(そいのほうり):守矢氏(方倉辺命の子孫)
だったそうですが、八杵命も池生命も方倉辺命もタケミナカタの息子ですから、明治5年まではまさしくタケミナカタの子孫(名負いの氏)が祖先のタケミナカタを祀っていたのです。
五官の祝のうちの神長(かんのおさ)であった守矢氏はタケミナカタの子孫ではありませんから、守矢氏が祀っていたのはタケミナカタではなく、諏訪にやってきて開拓をしたタケミナカタと共に「諏訪祭政体」を作った祖先のミシャグチ様であり、ミシャグチ様と祈祷殿は現在も守矢史料館のある守矢家の敷地にあります。
守矢史料館
ミシャグチ様を祀る神長官家の祖廟
神長官の祈祷殿
これはタケミナカタの子孫が禰宜大夫や権祝などの神官として祖先のタケミナカタを祀ってきたのが、タケミナカタの宮のあった神殿(ごうどの)に造られた祖廟であり、守矢氏が祀ってきたのは神長官家に造られた自らの祖廟だったということなのです\(^o^)/。