2016.2.13 池生神社8 武甕槌命と建借馬命
カカセオと戦った崇神天皇の第二皇子・タケミカヅチノミコトは、東国征伐完了後は那珂国造となって現在の水戸市に住みここで亡くなったようで、タケミカヅチのお墓(愛宕山古墳)とタケミカヅチを祀る祖廟(大井神社)は水戸市にあります。ちなみに『鹿島神宮誌』には、「タケミカヅチのお墓と伝えられる墳墓は鹿島にはない」と記されていましたが、中臣氏が宮司を世襲してきた鹿島神宮は、タケミカヅチを祀る祖廟ではないのです(^_-)。
新鹿島神宮誌
このことについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第5章「藤原氏の祖廟・春日大社と鹿島神宮を推理する」をご参照ください。
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大井神社由緒
この由緒には「建借馬命は崇神天皇の御代にトヨキイリヒコの命を奉じて当地にやって来た」と記されていますが、『古事記』が神武天皇の皇子として記した日子八井命(ヒコヤイノミコト)・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)・神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト=綏靖天皇)が即ち4世紀の崇神天皇の皇子のトヨキイリヒコノミコト・タケミカヅチノミコト・イクメイリヒコノミコト(=垂仁天皇)ですから、「崇神天皇の御代にトヨキイリヒコの命を奉じて当地にやって来た建借馬命」とはすなわち崇神天皇の第二皇子で鹿島神宮の祭神となっているタケミカヅチノミコトのことで、トヨキイリヒコとタケミカヅチは東国征伐軍としてミカホシノカカセオと戦うために崇神天皇の代に関東にやって来たのです。
また「建借馬命はもと肥の国(佐賀・熊本)の意富臣(おふのおみ)で大井神社はもと意富比(おほひ)神社である」とも記されていますが、この意富臣とは、崇神天皇の皇后の祖父(つまり建借馬命の曽祖父)であり、北陸将軍でもあった崇神天皇の伯父・意富比古命(大彦命・オオヒコノミコト)のことで、意富氏・大氏・多氏などと表記されている皇別氏族「オオ氏」の祖なのです。「臣」は皇別氏族のカバネですしね。
意富氏の祖は崇神天皇の伯父の意富比古命であるということについて、もしご興味があれば、2014.2.21から延々と書いている「オオ氏とは?」の謎解きをご参照ください。今リストを確認してみたら、なんと2.21から10.30の212回まで8ヶ月分もありましたから、とても読んでみようという気にはなれないかもしれませんが(^_-)、「オオ氏とは何者か」については、それほどに複雑で、綿密な検証が必要だったのです<(_ _)>。
大井神社の現在の宮司さんが、もしも5世紀から途切れることなく宮司を世襲してこられた方なのであれば、3世紀から諏訪大社の神長官を世襲してこられた守矢氏や、7世紀から高麗神社の宮司を世襲してこられた高麗氏のように、大井神社の宮司さんは祭神の建借馬命(タケミカヅチ)の子孫のはずなのですが・・・・・
守矢氏の祖廟「ミシャグチ様」
高麗氏の祖廟「高麗王廟」
高麗氏系図
現在の宮司さんに戴いたサインです(^o^)。
3世紀から世襲の守矢氏は78代、7世紀から世襲の高麗氏は60代ですから、もしも大井神社の宮司さんが5世紀から宮司を世襲してこられた社家なのであれば、現在の宮司さんは70代前後でしょうか(^o^)?