2016.2.8 池生神社3
支配者の宮や祖廟や墓は、たいがい支配地を見下ろすような眺望が良く、気持ちのよい高台のいかにもという場所に造られているのですが(^o^)、この神社があったのはそういう場所には見えなかったので、その時は推理が間違っていたのだろうか?と思ったのですが<(_ _)>、航空写真で確かめてみると、ここは平地に面した丘の先端部の南斜面のようですから、木が茂っていなければ眺望のよい気持ちの良い高台なのかもしれません(^o^)。
なにかこの地が池生命の宮跡であったことを示すような手がかりはないかと探してみると、石段の下のなんだか暗くて湿っぽい所に神社の概歴が記されていました。
池生神社概歴 右端に写っています
「境内には清冽満々たる神池があった」と記されているのですが、このなんとなく湿っぽいところが神池だったのでしょうか?ハケの下は湧き水の多い所ですから。
また、「境内の藤の古木は社の守護神として古来大切にされてきた」とも記されていて、御柱の近くには藤の木があったのですが、これがその藤ノ木なのでしょうか?
藤の木 左端は二の御柱
「往時は社地・社殿とも荘厳で、境内には清冽満々たる神池や諏訪三辻の一つに数えられた高辻(相撲の土俵)があり、近郷随一の祭礼が行われていた」「陽成天皇の時、正六位から従五位下に昇階された」とも記されていますから、そうであったならここはこの地の支配者の宮跡にふさわしい規模と威容だったのだろうと思うのですが、今はとてもそうは見えません<(_ _)>。
概歴には「その後世運の推移と中央線開通による社地の減損などにより、今は僅かにその片容を留めるに至った」と記されていますから、近郷随一だった池生神社も、時代が下るにつれて寂れてしまい、当時の面影はほとんど残っていないということなのでしょうね(T_T)。中央線はこの丘の向こう側を通っています。
でも、池生神社はタケミナカタの息子を祀る神社なのですから、現在も御柱はしっかりとが建てられています(^o^)。
池生神社の一の御柱