2016.2.9 池生神社4
現在公園や名園として残されている大名屋敷や明治の元勲・豪商と言われた人たちの邸は、ほとんどがハケ(崖)の南斜面の上の眺望の良い所に住居を作り、ハケの下には大きな池を作って、斜面を起伏と変化のある庭として利用する形になっています。身近な例を挙げてみると、江戸川公園、古河庭園、椿山荘、五島美術館、根津美術館、静嘉堂、滄浪泉園、殿ヶ谷戸庭園などなど・・・・・
今は、ソバ畑と雑木林になっている池生神社の辺りは「往時は社地・社殿とも荘厳で、境内には清冽満々たる神池や諏訪三辻の一つに数えられた高辻(相撲の土俵)があり、近郷随一の祭礼が行われていた」と伝わっているのですから、池生命がこの地を拓いた1800年くらい前にはこの丘に池生命の宮と庭園があったと考えても不自然ではないようです(^o^)。
概歴には「池生神社は、古来から池之袋村の産土神で、諏訪大社の権祝神姓矢島氏の祖神だった」とも記されていますから、この神社に祀られている池生命は実体のないカミサマではなく、池之袋村一帯を拓いたこの地の支配者であり、実在の人物で矢島氏の先祖だったのです(^o^)。
この池生命の子孫の矢島氏は「池生命の父のタケミナカタ」を祀る諏訪大社の神官の権祝(ごんのほうり)となっていたのですね。
祖廟(神社)とは、そもそも子孫(名負いの氏)が先祖を祀るものなのですが、諏訪大社の神長官だった守矢氏はタケミナカタの子孫ではなく、タケミナカタが出雲からやってくる以前のこの地の支配者であった守矢(漏矢)神の子孫であって、守矢氏が78代に渡って祀って来たのはタケミナカタではなく祖先神の漏矢神(ミシャグチ様)だったのですから、タケミナカタを祀っていたのは、タケミナカタの子孫(名負いの氏)である矢島氏だったのでしょう。
明治5年に神祇官が諏訪大社の神官の世襲を廃止し、神社本庁から赤の他人が神職として派遣されて来るようになってしまうまでは、諏訪大社ではきちんと子孫が神官を世襲して、タケミナカタの子孫がタケミナカタを、漏矢神(ミシャグチ様)の子孫が漏矢神(ミシャグチ様)を祀っていたのです(^o^)。
初代(?)大国主の墓だと思われる箸墓古墳が造られたのは250年頃で、崇神天皇と天津族に滅ぼされたのが4世紀末~5世紀初めのようですから、タケミナカタが諏訪にやって来て漏矢神と共に「諏訪祭政一致体」と呼ばれる体制を作ったのは紀元200~250年頃だろうと思うのですが、その頃に初代神長官となってから現在まで、守矢氏は78代に渡って世襲で自らの祖先である漏矢神(ミシャグチ様)を祀ってきたのです。
神長官・守矢氏が祀って来たミシャグチ様
守矢氏の祈祷殿