2016.1.2 山の隆起と世界の塩湖 チチカカ湖と諏訪湖10
400年頃から広まったプレ・インカのティワナク文明の後、インカ神話では1200年頃に伝説の王マンコ・カパックがクスコ王国の初代国王になったとされているそうですが、インカは文字を持たない文明だったのでインカによる記録はなく、口承されてきた神話などはスペインの征服によって失われたり、スペイン人によって聖書に沿うように改変されたり歪曲されてしまったりしたそうです<(_ _)>。
現在残っているものは征服者側のスペイン人によって記録されたものなのですから、滅ぼされたインカの本当の姿や歴史が正しく伝えられているかどうかは分かりませんよね(^_-)。征服者や簒奪者はいつだって自分達は神の子孫や神に選ばれた者であり、自分達こそが正義だとする記録を残すものなのですから(^_-)。力づくで理不尽に奪っても「神に約束された土地なのだ」と正当化するわけですしね。神というのは本当に便利な理屈です<(_ _)>。
マンコ・カパックはクスコの王とされていたり、インカの初代王とされていたり、「伝説の王」とされていたりして、本当はいつごろのどういう人だったのかよく分からないようで、歴史上実在したことが確実視されるインカの王は1438年に即位したパチャクテクから1532年に即位し1533年にスペインによって殺されたアタワルパまでのようです。
パチャクテク(在位1438年~1471年)
トゥパック・インカ・ユパンキ(在位1471年~1493年)
ワイナ・カパック(在位1493年~1527年)
ワスカル(在位1527年~1532年)
アタワルパ(在位1532年~1533年)
インカ帝国の解説を読んでみて、私にはプレ・インカのティワナク文明とクスコ王国とインカ帝国の関係がよく分からなかったのですが<(_ _)>、定説の400年頃からのティワナク文明の広がりと、1200年頃の伝説の王マンコ・カパックのクスコ王国と、1438年に即位したパチャクテクのインカ帝国との間には大きな欠落や飛躍があるのではないでしょうか<(_ _)>。
「インカ」とは元来は国の名前ではなく、クスコに住んでいた小さな部族の名称だそうで、マンコ・カパックとはケチュア語のManqu Qhapaq 「素晴らしき礎」という意味なのだそうです。
インカ帝国の時代とは1200年頃からのことではなく、クスコのインカ族出身のパチャクテクが即位した1438年からアタワルパが殺された1533年までのインカ族が支配していた時代のことであって、ティワナク出身だという伝説のマンコ・カパックは、1200年頃のクスコの王やインカ帝国の初代王だったのではなく、400年頃のティワナクの王で、200年代の日本の大国主のような存在であり、シユスタニの石の墳墓はやはりこのマンコ・カパックのお墓なのではないでしょうか。
どこの国の歴史を見ても、古代に部族小国家が林立していた頃は、それぞれの部族の拡大や存続をかけての争いが絶えなかったようです<(_ _)>。例えば『魏志倭人伝』は、「北九州では部族国家間の争いが絶えなかったので邪馬台国の卑弥呼を盟主に立てたが、卑弥呼が死んだ後はまた内乱状態になり大勢の人が死んだと当時の日本の様子を記しています。
この部族間の果てしない不毛な争いを収め、情報交換や交易によって共存共栄を図ろうとしたのが緩やかに連合しながら戦いではなく合議によって物事を決めようという大国主の体制だったのではないかと私は思います。「大国主」が個人の名前ではなく称号だったように、「マンコ・カパック」も「争いを収め平和をもたらす素晴らしき礎を作った王」への称号だったのではないでしょうか(^o^)。
大国主とその体制については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をご参照ください。
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