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Channel: 歴史探訪
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2019.8.22 コメントへのお返事2
 
昆紀死後、扶余紀は後期系百済系倭国の倭王になったわけです。これは継体大王です。継体という漢字は本来中国《漢書》から由来した言葉で、前代大王の王座を継ぐ意味も含まれています。また崇神天皇は前期百済系倭国の建国者、百済の所属国=加羅から渡来したのです。同じく百済貴族の血脈です、《記紀》は日本の一番古い歴史書とされていますが、残念ながら、藤原系に改竄されたもので、自分の都合に合わせて書いただけですから、どちらが真実か分からないのです(昔の日本の古書はみんな漢字で書かれたので、記紀の編纂に係ったのは殆ど、中国系の渡来人です。なので、記紀には中国語の文法が書いているのは普通です。これは漢習という。百済系渡来人が中国語の文法を学んで、書いた漢文がいくら書いても、日本語的な文法がたまに出てくることがあるので、これは倭習という。記紀に漢習の中に突然倭習が入ったことが発見されたので、途中、改竄されたことがあると日本の学者が指摘したものをまだ覚えています。
2019/8/21() 午前 10:30 [ 山越清 ]
 
 
昆支(応神天皇)の死後に倭王になったのは、継体ではなく末子のウジノワキノイラツコであろうと私は思います。応神天皇は464506年の42年間倭王の座にいたのですから、亡くなった直後の王朝はまだ安定していたはずですし、嫡子のウジノワキノイラツコもおり、応神天皇はこの嫡子のためにわざわざ百済から王仁(和邇)博士を招聘し、王族の王仁博士や阿知臣らに帝王教育をさせていたのですし。
 
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 前鳥神社
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『日本書紀』は「506年に武烈天皇が皇嗣を定めずに亡くなったため、越前にいた応神天皇の5世孫の継体が507年に即位した」としていますが、武烈天皇は架空の天皇で、506年に亡くなったのは昆支(応神天皇)であり、宮内庁が「仁徳天皇陵」としている大山古墳は架空の仁徳天皇の墓ではなく、42年もの間倭王の座に就いていた昆支(応神天皇)の墓なのです。

440年生まれの余昆(応神天皇)は、506年に亡くなった時66才だったわけですが、継体は507年に即位した時58才だったそうですから、継体が応神天皇の5世孫だというのは真っ赤なウソで、継体は余昆より9才年下の同世代の人だったのです(^o^)
 
余昆が渡来したのは462年で22才の時ですから、中国南朝に冊封されたのはそれ以前ということになりますが、継体が余昆の弟の余紀だったのであれば、余紀は当時10才前後だったはずですね。そんな幼い子供が中国南朝に冊封されていたのでしょうか?
 
私は林順治氏もそのお説も存じ上げないので、何を根拠に継体が余昆の弟の余紀だとお考えになったのか分からないのですが、年齢から見て、継体が余昆の弟の余紀であると考えるのは少し無理があるような気がします。
 

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