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コメントへのお返事2-2

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2019.8.23 コメントへのお返事2-2
 
 
『古事記』は神功皇后が筑紫で生んだ応神天皇を連れてヤマトに入ろうとした時、香坂王忍熊王が待ち構えていて、坂王戦う前に猪に食われてしまったが、忍熊王とは激しい戦いがあって忍熊王は琵琶湖で死んだ」という奇妙なオハナシを載せています。
 
けれど神功皇后は架空の人物で余昆(応神天皇)の母ではありませんし、余昆は3世紀の人ではありませんから、これは完全な作り話なのですが、『記紀』は国家規模で歴史書として作られたものですから、不必要な作り話を意味もなく載せたわけではなく、記しておく必要があったから載せたのだと私は思います。
 
それでは、この奇妙なオハナシはいったい何のために挿入され、どんな歴史の事実を騙って(隠して)いるのだろう?と考えてみました。
 
実際の応神天皇は440506年の人であり、502年に25代・百済王となった長男の斯麻(余隆)は503年に父・余昆に七子の鏡と七支刀、オホド王(後の継体)に銅鏡を贈っているのですが、この七支刀と銅鏡(国宝・隅田八幡銅鏡)には銘文が刻まれていて、銅鏡の銘文には、オホド王が503年には余昆と共に忍坂の宮にいたことが刻まれていました。(私は、この鏡はオホド王への誕生日プレゼントではなく、余隆の即位記念だったのではないかと思いますが)

七支刀の銘文は

 
隅田八幡銅鏡の銘文については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第3章の5をご参照ください。
 
隅田八幡
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 
 
神功皇后は架空の人物ですから、この神功皇后と忍熊王の戦いとは、「筑紫から河内の石川流域にやって来た余昆と河内王朝との戦い」を騙ったもので、香坂王・忍熊王とは倭王・興の息子たちで、戦う前に猪に食われてしまった香坂王とは、余昆に取り込まれて503年には余昆と共に忍坂の宮にいたオホド王(後の継体)のことであり、余昆は倭王・興の息子の香坂王を取り込み、忍熊王を倒して倭王・武になったということであり、この香坂王は、天津族がヤマトを攻めた時、ヤタガラスとなって天津族の手引きをした大国主の「嫡子ではなかった息子のアジスキタカヒコネノミコト」と同じような役割を果たしたのだろうと思います。

 
崇神―倭王・讃(垂仁)-倭王・珍―倭王・済―倭王・興-倭王・武(余昆)
 
この「倭の五王」についての推理は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第6章をご参照ください。
 
上記のような推理で私は、継体は応神天皇の5世孫でも余昆の弟でもなく、倭王・興の息子で崇神天皇の5世孫であると考えたのです。もし継体が余昆の弟の余紀であったなら、三斤王が暗殺された後、余昆の息子たちではなく蓋鹵王の後継者に決まっていたという余紀が帰国して王位に就いたのではないでしょうか?
 
そしてこの時、渡来して来た余昆が崇神系王族から王位を奪って「倭王・武」となったことが、8世紀に余昆(応神天皇)の血を引く子孫が王位継承者からいなくなるまで続いた崇神系王族と応神系王族の王位争いと殺戮の歴史の発端になったのです。
 
鵜野讃良皇女と安倍内親王は、どちらも応神天皇の血を引く応神系王族だったのですが、この殺戮の結果、安倍内親王(称徳天皇)が応神系の最後の天皇になってしまったのです。また、子を持つことができなかった称徳天皇が譲位しようとしたとされている弓削道鏡は調べてみたら、学者さんたちの言うような得体のしれない怪僧などではなく、弓削皇子の子孫であり、応神天皇の血を引く応神系王族であったことが分かりました。
 
血統(系図)的に少しでも可能性があれば王位争いをし、それがなければ武力(クーデター)で王位を襲っていたこの時代に、学者さんたちの好む「ロマン」ならいざ知らず、血統もなく武力(兵)も持たない得体のしれない一介の僧が、天皇に近づいたり、ましてや天皇に愛されたからといって(これも作り話でウソなのですが)天皇になったりできたはずはありません。

そんなことを考えただけでも王統を守るために殺されてしまっただろうと思うのですが、天皇をたぶらかし、戒律を破って女犯を犯して天皇になろうとした「日本三大悪人」の一人とされている道鏡は、奇妙なことに殺されるどころか、こともあろうに僧に戒律を授ける「日本三大戒壇院」の一つである下野薬師寺に送られているのですよね(^o^)つまり、このオハナシもウソなのです。
  

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