2019.8.21 コメントへのお返事1
私は中国に在住した中国人です。山越清は私の日本風の名前です。日本文化を含む東アジアの古代文化に興味を持って、自分なりに研究をしてきたのです。なので、日本の歴史を歪めたりするつもりが全然ありません。第三者の視点で日本の語れていない古代文化を突き止めたいのです。扶余紀は昆支の弟で、同じく百済比有王の息子です。扶余紀は昆支と同じように中国南朝に冊封されていました。また比有王の息子=百済蓋ろ王の後継者として扶余紀を決めたのですが、なぜか、扶余紀が百済から姿を消して百済王になれなかったのです。扶余紀がどこに行ったのかというと、日本にいきました。恐らく、高句麗との戦時がもっと深刻な状況に曝さしたので、王室の血脈を継続するために扶余紀に非難させた可能性が高いのです。渡来当時は、兄の昆支が前期百済系倭国の倭王になっていたのです。
2019/8/21(水) 午前 10:29 [ 山越清 ]
私は日本人ですが、どの国の歴史に関しても全くの素人ですので、日本も含めてどの国の歴史に対してもほとんど「第三者」です(^o^)。
歴史を考えるうえで師事した人も準拠する人もいませんし(というよりどういう人がいてどんな説を出しているのかを知らないというのが実情ですが)、私自身はどんな「説」も持ってはいません。ただ訳の分からない古代史を論理的に筋の通ったものとして納得したいと思って矛盾している点について考えてきたのですが、山越清さまと目的は同じだったようですね(^o^)
ですから私がこれまでに目にしたものは、一般人が普通に目にすることができるものに限られていて、昆支に扶余紀という弟がいて、中国南朝に冊封されていたことや、扶余紀が21代蓋鹵王の後継者になっていたことなどは全く知りませんでした<(_ _)>。
扶余紀は百済から姿を消して百済王になれなかったとのことですが、姿を消したのは日本に行ったからだということは確認されている事実なのでしょうか?この時期の百済では、内部の争いで王や王の後継者の暗殺が相次いでいたようですが。
昆支の次男の余牟大が筑紫の兵と共に百済に送られて24代東城王になったのは、22代文周王・23代三斤王が相次いで暗殺されて跡継ぎがいなくなってしまったからのようですし、その後長男の余隆が百済に送られて25代武寧王になったのも、弟の東城王が暗殺されてしまったからのようです。昆支は長男の余隆を自分の跡継ぎの倭王に、と考えていたのではないかと思うのですが。
もしも「百済中興の王」となったという壮年の余隆が倭王になっていたら、応神系の王朝はずっと安定したものになっていたのでしょうね。余隆は余昆が日本に来る途中、462年に佐賀県の加唐島で生まれた「斯麻」であることが武寧王陵から出土した墓誌で確認されていますから、応神天皇が亡くなった506年には44才だったのですよね。
武寧王が生まれた加唐島のオビヤ浦