不比等の妻になった橘三千代は「命婦(みょうぶ)」だったそうですが、「命婦」ってなんだろう?と疑問に思ったことはありませんか?私はずっと疑問に思っていたのですが、ある時韓国歴史ドラマに「内命婦・ネビョンブ」が出てきたので、「ああ、この妙な言葉も朝鮮半島から来たものだったのか」と思いました(^o^)。
後宮の制度なども渡来してきてから新たに作ったわけではなく、朝朝鮮島でやっていたことをそのまま持ってきていたようですが、朝鮮半島の制度の元は中国の制度ですから、ドラマを見ると高句麗も新羅も百済も似たり寄ったりで、『源氏物語』に描かれている日本の後宮もほとんど同じだったようです。お后の定員や呼び方などは、時代やそれぞれの国の事情に合わせて少しずつ違っていたようですが。
アメノタリシヒコに謁見した裴世清は、オオキミの後宮には6~700人の女がいたと報告しています。裴世清が後宮に入れたはずはありませんから、実際に見て数えたわけではないと思いますが(^o^)、後宮に大勢の女性がいたということは間違いないでしょう。このこと一つとっても、この時のオオキミが(推古)女帝だったはずはありませんよね(^_-)。
私はドラマに繰り返し描かれている権力闘争にはうんざりするばかりで興味を持てないのですが<(_ _)>、言葉や制度に限らず権力を巡る闘争や陰謀なども同じようなことをしていたようなので、韓国歴史ドラマを見ていたら、これまで疑問に思っていたことが「ああ、あれはそういうことだったのかも」と分かってきたのです(^o^)。
三千代は、不比等の妻になる前は王族の美努王の妻で、美努王との間に葛城王・佐為王・牟漏女王という3人の子がいたそうですが、それがなぜか不比等の妻になって光明子を生み、その光明子が聖武天皇の後宮に入って、王族以外から立后された初めての皇后になったとされていますが、壬申の乱以来の天武派の忠臣だったという「県犬養氏」の一族出身で、夫と三人の子供までいた三千代がどうして大津皇子を謀殺した不比等の妻になったのでしょう???
以前読んだ『美貌の女帝』は、諸兄ではなく元正天皇に焦点を当てたものでしたが、その時代を舞台にした小説でした。
もうだいぶ記憶が薄れてしまったのですが<(_ _)>、その中では三千代は夫と三人の子を捨てて不比等に走った権勢欲の強い女性として描かれていたような気がします。もし三千代が自らの意思で不比等に走ったのならそうなのかもしれませんけれど・・・・
でも、三千代が不比等の妻になって701年に光明子を生んだ後も、三千代は文武・元明・元正天皇に仕えていて、708年には元明天皇から「橘」を賜っているのですよね。天皇の信頼が篤かったという三千代は、本当に自分の欲のために夫と子供を捨てるような権勢欲の強い女性だったのでしょうか?