不比等が政治の中枢に躍り出たのは、696年に高市皇子が死去して以降のことのようで、それまでは直広肆・判事の職にあった少壮官僚だったのだそうです。
ところが天津族の王族ではなく、鎌足の子で少壮官僚にすぎなかった不比等の娘の宮子は、687年に軽皇子の妃として後宮に入っているのですよね。その背景には、阿閉皇女(元明天皇)の信頼を受けた三千代の存在があったと考えられているそうです。系図上では国津族の鎌足の子だということになっている不比等の野望にとって天皇の信頼の篤い三千代はこの上なく役に立つ女性だったようです。
そして軽皇子の後宮に娘を送り込んだ不比等は、696年に軽皇子の立太子に反対する高市皇子を暗殺してしまうが早いか697年には天武天皇の皇子たちを退けて草壁皇子の遺児でまだ15才だった軽皇子を持統天皇が譲位したという形で即位させてしまい、娘の宮子は夫人の地位に就いたのですが、王族出身ではない宮子は皇后にはなれなかったので、不比等は宮子より上位の妃で皇后候補であった王族の石川刀根娘と紀竈門娘を713年に陥れて降格させ、石川刀根娘が生んだ二人の皇子・広世と広成を臣籍降下させて皇位継承権を奪うと、714年には夫人・宮子の子で自分の孫だった13才の首皇子を立太子させたのです。
また不比等は、娘の宮子を文武天皇の後宮に入れただけではなく、三千代との間に生まれた娘(安宿媛)をも自分の孫でもあった首皇子(聖武天皇)の後宮に入れているのですが、こんな不自然な近親婚のような婚姻が成立したのも、「不比等の娘」だったからというより「三千代の娘だったから」ということでしょうか。
これは、三千代が自分の権勢欲のために不比等を利用したというより、不比等が自分の野望のために誰よりも天皇に近い所にいて影響を及ぼすことができた三千代を利用したということなのではないでしょうか。三人の子がいて若くはなかったであろう三千代と結婚したのも、入内させるには娘が正室の子でなければならなかったからかもしれません。
三千代が前夫の美努王との間に第一子の葛城王(後の諸兄)を生んだのは684年だそうですが、701年には不比等との間に光明子を生んでいますから、700年頃にはもう不比等の妻になっていたのでしょうね。すると、長子の葛城王が15~6才になるかならないかで、その弟妹はまだ幼かったころに三千代は家を出てしまったということのようですが、自分の権勢欲のために夫と幼い子供たちを捨てて他の男に走るような女性が歴代の天皇に信頼されたとは思えませんから、不比等との結婚は三千代自身の意思ではなかったのかもしれません。
不比等の妻になってからも三千代は「県犬養氏」に属していたそうですし、娘の安宿媛(光明子)が首皇子(聖武天皇)の妃として後宮に入った時、「県犬養氏」の一族の広刀自も後宮に入っているのですが、これを勧めたのは三千代なのだそうです。自分の娘の夫になる人に別の娘を勧めるというのもよく分かりませんが<(_ _)>、どうせ複数の妻を持つなら自分の一族の娘を、ということだったのでしょうか?それとも安宿媛より上位になる王族の娘を入内させないためだったのでしょうか。首皇子の妃として後宮に入った安宿媛と県犬養広刀自は、首皇子が即位すると「夫人」となったわけですが、聖武天皇には皇后候補となる王族の娘の妃はいなかったようですから。
そして本来は皇后にはなれなかったはずの夫人の安宿媛が藤原4兄弟のゴリ押しで皇后になったわけです。「光明子」「光明皇后」というのは安宿媛の諡号なのでしょうね。
いずれにしても、結婚も離婚も再婚も、女性が自分の意思で自由にできる時代ではなかったと思いますし、ましてやもし三千代が望んだとしても、既婚者で三人の子持ちだった三千代が権力者の側室ならともかく、正室に収まるなどということはできなかったのではないかと思うのですが。
光明子(安宿媛)が皇后になったのが729年、そして736年には三千代と前夫との間の子であった葛城王・佐為王が臣籍降下を願い出て橘諸兄・橘佐為となり、聖武天皇に登用された橘諸兄は「反藤原」の先頭に立つようになったのですが、いったいどうしてだったのでしょうね?想像力豊かな小説家や脚本家なら、それこそ様々なオハナシやドラマを作れそうですが(^o^)。