2019.8.4 鵜野讃良皇女と安倍内親王17
聖武天皇が平城京から橘諸兄の領地に都を移したのは、平城京に根を張る藤原氏に対抗し、安積親王を暗殺から守るためだったようですが、では橘諸兄はなぜ聖武天皇とタッグを組んで絶大な力を揮っていた藤原氏に立ち向かう「反藤原派」の先頭に立ったのでしょうか?
光明子(安宿媛・藤三娘)の母の橘三千代は橘諸兄の母でもあり、諸兄にとって不比等は母の夫であり、光明子は異父妹だったのですが・・・・・それなのになぜ?
橘三千代は、元は「県犬養道代」で、聖武天皇の妃となって井上内親王・不破内親王・安積親王を生んだ「県犬養広刀自」の同族で、壬申の乱以来の天武派の忠臣である「県犬養氏」の一族であって、天武系王族の信頼が篤く、命婦として持統・文武・元明・元正の歴代の天武系の天皇に仕え、その功績によって708年に元明天皇から橘の姓を下賜され、その時名前の「道代」も「三千代」に改め「橘三千代」になったのだそうです。
でも「姓を賜った」というのは変だと思いませんか?三千代は701年に光明子を生んでいますから、それ以前に不比等の妻になって「藤原の室」になっていたはずなのに、そこに新しい姓など貰っても煩雑になるだけでありがたいことなど何もないではありませんか(^o^)。
そもそもこの時代に「姓」というものはなく、それぞれの領地の地名を冠して「○○のだれそれ」と呼んでいたのですから、道代に下賜されたのは「橘」という領地で、そのために道代は「橘の(領主の)三千代」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
「橘」って聞いたことがあるような・・・・と思ったら、明日香の天武天皇が宮を置いた「大字岡」の南側が「大字橘」でした。道代はこの天武系王族にゆかりが深く、天武・持統陵のすぐ近くにある「橘」を領地として貰ったということでしょうか。この時代の収入は給料ではなく領地から得られるものだったのですから、功績を謝して与えたのなら何の足しにもならない「姓」ではなく、領地だったのではないかと思うのですが(^_-)。
不比等は「藤原の不比等」ですから、この藤原は不比等の領地、「藤原の宮」は不比等の宮であり、天武天皇の死去後実権を握った不比等は、「中国に倣った条里制の新しい都を作る」という口実で、天武派の人々が大勢住んでいた明日香ではなく、自分の領地の藤原に自分の宮を中心とした都を造ってしまったということなのではないでしょうか。
藤原の宮跡