先日、「父が死んだことをいちはやく知ったワカタケルは・・・」と書いてしまいましたが、『ワカタケル』では先王は父ではなく兄になっていました。
そこで宮内庁の「天皇系図」を調べてみると、雄略の父は19代允恭で、20代が兄の安康、そしてワカタケルは次兄・三兄を殺して21代天皇になったということのようです。こんな作り話を平気で「正史」に書いているということは、当時王位に就くために兄(人)を殺すなどということは珍しくもなかったということなのでしょうね<(_ _)>。
でもこの系図で仁徳天皇や雄略天皇が作り話の架空の天皇であることがよりはっきりしました。『記紀』の作り話にはオハナシの使いまわしや登場人物の名前の使いまわしなどいろいろな使いまわしのパターンがあるのですが、中でも繰り返し使われているパターンは「架空の人物では子孫を絶えさせる」というものです。そうしておかなければ次から次へと架空の子孫が増えて収拾がつかなくなってしまいますから(^o^)。
たとえば、欽明天皇の息子で実在の大王だったアメノタリシヒコを隠すために創った「推古天皇と蘇我馬子と聖徳太子」では、推古天皇の太子は推古天皇の息子ではなく聖徳太子だったことにして推古天皇自身の子孫はその後登場させず、馬子の子孫とした蝦夷と入鹿については、入鹿は「大化の改新」で中大兄に殺され、それを知った蝦夷と一家は自害してしまったというオハナシを作って馬子の子孫を絶えさせ、もう一方の聖徳太子も息子の山背大兄皇子を始めとして一族の全員が集団自害してしまったことにしてこちらの子孫も絶えさせています。
学者さんたちは全く疑問に思わないようなのですが、そもそも天皇ではなかった「聖徳太子」の息子が「大兄皇子」という名前だったはずはないのですよね(^_-)。その点では天皇の子ではなかった中大兄皇子も、皇子でも「大兄皇子(皇太子)」でもなかったのですが、こちらは両親を舒明・皇極(斉明)という架空の天皇に仕立て、その上異父兄の天武を弟だということにして、中大兄は天皇の長子で「大兄皇子」つまり正統な皇太子だったというオハナシに仕立ててつじつまを合わせています。
けれどアメノタリシヒコは実在の大王で、その子孫は王族として続いていましたから、こちらには「蘇我倉麻呂―石川麻呂」という名前を作って別の豪族だったように見せかけて系図を作っています。なぜならアメノタリシヒコの子孫たちは何人もが天智天皇妃や天武天皇妃や皇太子妃などになっているのですから、彼女たちがいなかったことにはできませんし、ましてや天皇妃や皇后ともなればどの家の誰の子なのか出自を記しておかなければならなかったわけですから。彼女たちはみな、石川麻呂とその弟の赤兄の娘や孫だったことになっています。
このブログでは、様々な面から論理的に考えてみて仁徳天皇も雄略天皇も架空の人物であると書いてきましたが、天皇系図を見ると、やはり仁徳天皇も雄略天皇も子孫が絶えたことになっていました。
ところで、岡田鴨神社を調べてみたら「元明天皇の岡田離宮跡に造られた」とありましたから、やはりここには「宮」があったようですが、元明天皇が加茂氏の祖を祀るはずはありませんから、ここに宮があったとすれば、それは加茂氏の宮だったのだろうと思います(^o^)。