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鵜野讃良皇女と安倍内親王15 垣内

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2019.8.2 鵜野讃良皇女と安倍内親王15 垣内
 
絵図を見ると、加茂氏の奈良時代の本拠地に造られた岡田鴨神社は大きな神社だったようで、今も長い参道が残っているようです。
 
イメージ 1
 
地図では、木津川を挟んで広い範囲が「加茂町」になっているのですが、これは明治22年に相楽郡里村、高田村、法華寺野村、大野村、観音寺村、美浪村、銭司村、兎並村、北村が合併して「加茂村」になり、その後「加茂町」になったのだそうです。字名を見ると、岡田鴨神社とその南側一帯が「鴨村」となっていますから、ここが元々の加茂(鴨)村で、奈良時代に加茂氏の宮があった場所なのではないでしょうか。
 
2012年に行った時には、「恭仁京ってここにあったのか」という興味から鴨神社と大極殿跡と山城国分寺跡の石碑を駆け足で見て回ってきただけだったのですが(^_^.)、改めて地図を見てみると、大極殿跡の周辺には垣内・溝垣内・奈良垣内・内垣内・登垣内・久保垣内・東垣内・中垣内・西垣内・鍛冶屋垣内・園垣内などの「○○垣内」という地名(字名)がたくさんあります。
 
これは「かいと」と読むようで、私は関東では「垣内(かいと)」という地名を聞いたことがなかったのですが、京都・奈良・大阪には多い地名のようです。

以前「この辺りに宮があったのではないか?」と考えた所を地図で探すと、その周辺にはたいがい垣内という地名(字名)あったので、垣内とは垣で囲まれた区域の内側、つまり宮があった場所を示しているのではないか?と考えたことがあったのですが、恭仁京の大極殿周辺の「垣内」を見るとかなり広い範囲なので、この「垣内は恭仁京の範囲を示しているのかもしれません。
 
大極殿跡の辺りは「溝垣内」となっていますから、「溝垣内」は溝(堀)で囲まれていた主要部、登垣内は高くなっている所、久保垣内は窪地になっている所、鍛冶屋垣内は鍛冶職人などが住んでいた所ということでしょうか?
 
大極殿跡の南には東大門・大門という字がありますから、その辺りに恭仁京の大門や東門があったのかもしれません。
 

「柿ノ内」という字もありますが、これは「垣ノ内」でしょう。内垣外・城垣外というのもよくわからないのですが、もっと分からないのは大極殿跡の西に「宮ノ東」という字名があるのですが、なぜ「宮ノ西」ではなくて「宮ノ東」なのでしょう? でも、こういう疑問は地元の資料でないと分からないのですよね<(_ _)>。

 
この「宮ノ東」には恭仁神社があるので、諸兄か聖武天皇が造った祖廟なのかもしれないと調べてみたら、この神社はもとは菅原道真を祀っていた天満宮、恭仁京大極殿の東にあった御霊神社と合祀して昭和408月に神社名を恭仁神社としたのだそうです。
 
天満宮では諸兄にも聖武天皇にも全く関係がないようですが、この天満宮の西に天満宮を造った人の宮があったのでしょうか?「宮ノ東」の北側には「宮ノ浦」という字もあるのですが。
 
「御霊神社」とは、「非業の死をとげた人の霊のたたりを恐れて、その霊を鎮めるために祀(まつ)った神社」だと言われていますが、大極殿の東にあったという御霊神社は何を(誰の霊を)祀っていたのでしょうね?16才で藤原氏に殺されてしまった安積親王でしょうか(T_T)
 
安積親王の墓は和束町にあるそうなので、「それ、どこ?」と探してみると加茂町のずっと北の方でした。「聖武天皇の皇子の墓がどうしてそんな所に?」と疑問に思ったのですが、藤原氏に殺された安積親王は、藤原氏が席巻していた平城京ではなく、橘諸兄の領地だった相良郡に葬られたということなのでしょうか。

ここにもたくさん「謎」がありそうですね。
 

 

 

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