2019.8.1 鵜野讃良皇女と安倍内親王14 神社は「祖廟」
神社とは子孫が祖先を祀っていた祖廟であって、賀茂御祖神社の祭神は文字通り加茂氏の「祖」であり、賀茂別雷神社の祭神の別雷命は学者さんたちが言うような「雷神(カミナリサマ)」ではなく、アジスキタカヒコネの息子の別雷命(別名・火雷命)なのです。
関東には別雷命を祀る「別雷神社」や「火雷神社」がたくさんあるのですが、これは別雷命が東国征伐軍としてトヨキイリヒコやタケミカヅチやフツヌシらと共に関東に来ていたからで、彼らが最後まで東国で抵抗の戦いをしていたミカホシノカカセオと戦った地には、カカセオを祀る星宮神社・タケミカヅチを祀る鹿島神社・フツヌシを祀る香取神社・ワケイカヅチを祀る別雷神社・加茂氏の祖を祀る神社などがたくさんあります。
大井神社由緒
群馬県に別雷神社や火雷神社が多いのは、別雷命が東征後葛城に帰らずに群馬(かみつけ)に住み着いたからであって、学者さんたちが言うように「群馬県には雷が多いからカミナリサマを祀っている」のではないのです(^o^)。統計を見ても群馬県に特に雷が多いわけではありませんし。
東国平定後に王族のトヨキイリヒコは毛野国の、タケミカヅチ(建借馬命)は那珂国の国造になっています。5世紀に造られた関東最大の前方後円墳である群馬県太田市の天神山古墳がトヨキイリヒコの、同じ頃に築造された茨城県水戸市の愛宕山古墳がタケミカヅチ(建借馬命)の墓であろうと思います。5世紀以降に地方に巨大な古墳を造ったのは、学者さんたちが口癖のように言う「地方の豪族」ではありません。そんな者がいたら「それを滅ぼして奪う」のが「征服する」ということなのですから。
別雷命は葛城では「火雷神社」に祀られていたのですが、別雷命が関東に去った後その辺りは笛吹連の領地となり、祀る子孫のいなくなった火雷神社は小詞として笛吹連の祖廟の「笛吹神社」の境内社になっていたそうですが、明治7年(1874)に笛吹神社に合祀され、「笛吹神社」は「葛木坐火雷神社」に改称させられたようです。改称させた神祇官は加茂氏の子孫だったのかもしれませんね。少なくとも笛吹氏の子孫ではないはずです(^_-)。けれど地元の人たちにとっては、この神社は今も「笛吹さん」のようです(^o^)
葛木坐火雷神社
高鴨神社の由緒にもあるように加茂神社は全国に多数あるようですが、これは一等功臣となった加茂氏は各地に支配地を持ったということであって、自分が移住して開拓したわけではなく、支配地に散った子孫たちが各地に祖廟を造っていたということだろうと思います。
ネコビタイ便り ドリアンその後
ドリアンはまず太い根を出し、それが方向を変えて土に潜っていった後、反対側の芽の部分を殻の中から出して頭を180度起こすようです。鉢を外に出して置いたら、1個は頭を出す前に根を虫に食いちぎられてしまい、1個は頭を持ち上げ始めた所で半分齧られてしまいました(T_T)(T_T)(T_T)。
残ったの1個が頭を起こし始めているのですが、無事に葉を広げてくれるかどうか・・・・