2019.7.31 鵜野讃良皇女と安倍内親王13 岡田鴨神社
征服者とは、自分で土地を拓く人たちではなく、後からやって来て既に拓かれていた豊かな土地を奪った人たちのことなのですから、木津川の周辺に古墳がたくさんあるということは、その辺りに早くから住んでいた縄文人や大国主の時代の人たちが拓いた土地を天津族が奪ったということなのでしょう。海面が高くて海がずっと内陸まで入り込んでいた頃には、内海に面した水運の便が良くて暮らしやすい所だったのでしょうから(^o^)。
恭仁京の住所が「京都府木津川市加茂町例幣溝垣内」となっていたので、葛城の加茂氏と関係があるのではないかと思って調べてみると、地図に鴨神社があったので、加茂氏との関係が分かるかもしれないと考えて行ってみました(^o^)。
岡田鴨神社
やはり葛城の加茂氏(ヤタガラスになって天津族のヤマト攻めの手引きをし、東征の一等功臣となったアジスキタカヒコネの子孫)は、現在の京都の加茂に移る前に葛城から南山城に移ってこの辺りを本拠地にしていたようです。
加茂氏は、大国主の時代には葛城を、平城京が都だった頃には南山城のこの一帯を本拠とし、都が山城の平安京に移ると加茂氏も本拠を山城に移したのですね。
今も続く京都の葵祭は『源氏物語』に描写されているように、元々は加茂(鴨)氏の祖廟である賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)に朝廷からの勅使が奉幣に行く行列を貴族たちが見物したことが始まりのようです。
朝廷からの勅使が、なぜ貴族たちが競って見物に出るほどの大々的な行列を作って毎年加茂氏の祖廟に奉幣に行っていたのかというと、天津族が大国主から国を奪った時にヤタガラスとなって手引きをした「大国主(ナガスネヒコ)の息子のアジスキタカヒコネ(鴨大神)」の子孫」に、「おかげさまでこの国を手に入れることができました」という謝礼の贈り物を毎年届けに行っていたということでしょう(^o^)。
大国主とその傘下の王たちは、かしこまって国を譲ったりはせず、『古事記』が「神武の東征」というオハナシに仕立てたように、征服にやって来た天津族と激しく戦ったのです。当然ですよね。
大国主を殺し、天津族がその戦いに勝って日本という国をまるまる手に入れることができたのは、何といってもヤタガラスになったアジスキタカヒコネの裏切りのおかげだったのですから、毎年長い行列を作って運んでいくほどたくさんの贈り物をしていたということのようです(^_-)。
またここの住所に「京都府木津川市加茂町例幣溝垣内」と「例幣」の文字が入っているということは、この勅使の奉幣は南山城にいた頃にも行われていたということなのでしょうね。
常識で考えても「国譲り」などということがあったはずはないのですから、『記紀』の作り話ではなく、このブログで解き明かしてきたような本当の歴史をドラマにするのであれば、kojita様がお望みの「朱蒙」や「奇皇后」のようなドラマにならざるを得ないだろうと思うのですが、カミサマを収入源にしている神社本庁や、日本会議や、論理性よりもロマンがお好きらしい(?)歴史学者さんたちは血なまぐさい本当の歴史など絶対に認めないでしょうね<(_ _)>。