2019.7.30 鵜野讃良皇女と安倍内親王12
聖武天皇が藤原氏の諜報網から逃れるために平城京から居場所を移した先はなぜ恭仁京だったのだろう?ということについてですが、恭仁京跡は、資料館の地図で見た時には周りは山ばかりの小さな盆地のように見えたので、辺鄙な山里なのではないかと思ったのですが、
その辺りは当時「山背国相楽郡」で、相楽郡は聖武天皇が「反藤原」でタッグを組んだ橘諸兄の領地だったのだそうです。それでは、それがここを遷都先に選んだ最大の理由だったのでしょう。最大の味方であった諸兄の領地内であれば、非藤原の県犬養広刀自を母とする安積親王の命を藤原氏の手から守れると考えたのではないでしょうか。実際に恭仁京にいた間は安積親王は無事だったのですが、恭仁京を出て難波宮に向かう途中で突然具合が悪くなって2日後には急死してしまったのですから(T_T)。
恭仁京は、地図では周りは山ばかりのように見えたのですが、行ってみたら山深い所ではなく、だだっ広くはないけれど川に向かって開けたとても気持ちのいい所でした(^o^)。木津川の周辺は辺鄙な山里ではなく、舟の便が良いため古くから開けていた所だったようです。
恭仁京大極殿跡
宮跡に建つ恭仁小学校(宮跡はたいがい学校か公共施設、役所などになっています。)
宮跡に造られていた山城国分寺の跡
海面が高かった古代には海が内陸まで入り込んでいた木津川沿いには、32面もの三角縁神獣鏡が出土した椿井大塚山古墳をはじめとして古墳がたくさんあるようで、2~4世紀の大国主の時代にはすでに椿井大塚山古墳の被葬者のような有力者がここに住んでいたのですし、4世紀末~5世紀初めに崇神天皇の異母兄弟のタケハニヤスヒコが宮を置いていたのも木津川の周辺で、謀反を起こしたタケハニヤスヒコの軍と、崇神天皇の伯父のオオヒコノミコトの軍が戦ったのもその辺りだったのですから、木津川の周辺は古くから人が住んでいた開けた土地だったのです。