それでは、不比等の諜報網から逃れるための遷都先はなぜ恭仁京だったのか?
私は恭仁京がどこにあるどんなところなのか知らなかったのですが<(_ _)>、2012年に南山城探訪に出かけた時、恭仁京跡が山城郷土資料館の近くにあることを知ってついでに行ってみました。
でもこの時は、「古代の地形から『記紀の』謎を解く」に書いた「大国主と三角縁神獣鏡の関係」や「建波邇安彦(タケハニヤスヒコ)の乱」や「ウジノワキノイラツコ」についての推理を確かめるのが目的だったので、32面もの三角縁神獣鏡が出土したという椿井大塚山古墳や、
ウジノワキノイラツコを祀っている宇治神社・宇治上神社、ウジノワキノイラツコの墓ではないかと推理した宇治二子塚古墳などに行ってみることが主眼で、
恭仁京についてはまだ何も考えていなかったのですが(^_^.)。
『古事記』は、オオヒコノミコトとタケハニヤスヒコは和訶羅河(わからがわ)の辺りで戦ったことを記しているのですが、地図には和訶羅河という川がありません<(_ _)>。
そこで調べてみると、和訶羅河とは木津川のことで「タケハニヤスヒコの乱」は史実であり、オオヒコノミコトとタケハニヤスヒコは実在の人であることが湧出宮・祝園神社の伝承やお祭りから分かってきたのですが、『古事記』は、このオオヒコノミコトは崇神天皇の伯父だと記しているのですよね。
それらのことからこの探訪で「古代の地形から『記紀の』謎を解く」に書いた「埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘文に刻まれていたヲワケ臣の上祖(かみつおや)のオオヒコとは崇神天皇の伯父のオオヒコノミコトのことである」という推理が正しかったことや、ウジノワキノイラツコが実在の人であったことなどが分かってきて、学者さんたちや池澤夏樹氏が「雄略天皇」だとしているワカタケル大王は、実際は「欽明天皇」であって、即位したのは『記紀』の記す539年ではなく、531年の辛亥年であったことを確信することができたのです\(^o^)/。
金錯銘鉄剣
ところで「ワカタケルは雄略天皇」だとする池澤夏樹氏の『ワカタケル』では、ワカタケルは自分に譲位を迫った大后を斬り殺してしまった後、魂が抜けたようになって死んでしまい、その後雄略天皇の息子の白髪が王位に就いたものの子がないまま死んでしまったので、葛城のイヒトヨという女性が王位に就いたというオハナシになってきています。宮内庁が公表している天皇の系譜では、雄略―清寧―顕宗―仁賢―武烈となっていて女王はいないのですが、勝手に女王を作ってしまってもいいのでしょうか?
元々『記紀』の記している上記の天皇は雄略天皇も含めて全て作り話の架空の人物ではあるのですが、それにしても、その作り話にさえない女王を勝手に作って「この国の成り立ち」であるとすることには疑問を感じるのですが・・・・
そういえば池澤氏は、200年に亡くなった仲哀天皇の子なのに270年に即位したとされていて計算の合わない応神天皇を、300年以上も生きていたタケノウチノスクネが神功皇后と通じてできた子だということにしていました。そうであれば天皇家はアマテラスの子孫ではなく、タケノウチノスクネの子孫だということになるのですが、そんな風に歴史を変えるようなオハナシを勝手に作ってしまっていいものなのでしょうか?
KojitaさまがNHKの大河ドラマにお望みの「応神天皇の時代のドラマ」が、『記紀』が隠した5世紀に渡来した実際の応神天皇のことではなく、この時代の作り話のことなのであれば、国会議員の大部分が神懸りの「日本会議」に属していて「神道教育」を進めようとしている今なら、神話的・おとぎ話的なドラマをすぐにでも作ってくれるのではないかと思いますが(^_-)。