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鵜野讃良皇女と安倍内親王10

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2019.7.27 鵜野讃良皇女と安倍内親王10

 
聖武天皇がいつ・どこへ遷都したのかを調べてみると、
 
724740 平城京
740.12744.2 恭仁京
744.2 難波宮
744.25 紫香楽宮
745.5~ 平城京
 
となっていました。聖武天皇740年から745年までの間に平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京と目まぐるしく居場所を移していたようです。これだけを見ると、何の脈絡もなさそうで不可解ですが、当時聖武天皇が置かれていた状況と、安積親王が16才で急死した時期と、この頃聖武天皇が藤原氏と距離を置き始めていたことを考え合わせると遷都の理由が見えてくるようです。
 
恭仁京への遷都は、737年に30年ぶりに母の宮子と対面した聖武天皇が、臣籍降下して「橘氏」になった橘諸兄とタッグを組み、735年に唐から帰国していた吉備真備・僧玄を登用して藤原氏と距離を置き「反藤原体制」を敷き始めた時期であり、そのさなかの744年に安積親王は恭仁京から難波宮へ向かう途中で急に具合が悪くなって2日後に急死してしまったのです。
 
では、なぜ聖武天皇は平城京から遷都したのか?
 
平城京は不比等がプランニングした都であり、平城宮は名目上の天皇とした元明・元正の形だけの内裏であって、実質的な政庁は「奈良の中の奈良」である奈良町の外京あったのではないでしょうか。
 
平城京の地割
イメージ 1
 
奈良ホテルのある高台
イメージ 2

興福寺の塔
イメージ 3

 
平城京から東に突き出した外京に不比等は自らの氏神を祀る春日大社と、自らの氏寺である興福寺を大々的に造営していますから、その一帯は全て不比等の土地であり、東に氏神、北に氏寺を配した要の位置にある高台(現在の奈良ホテル)の一帯が不比等の邸だったのではないかと思います。そう考えた理由は2012.6.178.24のブログ「不比等と奈良ホテル」をご覧ください。例によって細かくて長~~いのですけれど(^o^)
 
気が付いてみれば、平城京には臣下のはずの不比等の広大な氏神を祀る神社と氏寺があるのに、最高権力者の天皇であったはずの元明・元正天皇の祖を祀る神社も氏寺もなかったようです(T_T)
 
平城京は不比等が君臨する不比等の都であり、不比等の諜報網は都中に張り巡らされていて、「反藤原」の会合など不可能だったことでしょう<(_ _)>。その諜報網に少しでも不審や疑惑を持たれれば、何一つ事実などなくても長屋王の一家のように謀反などの口実をテッチあげて根こそぎ粛清されてしまったのですから(T_T)それが聖武天皇が平城京から離れた所に遷都した理由だったのではないでしょうか。
 

 


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