首皇子(聖武天皇)は6才で父の文武天皇を失い(これも不比等による暗殺だったようですが)、文武天皇の「夫人」で皇后にはなれなかった母の宮子からは、不比等によって「心的障害」という口実で引き離され、首皇子は30年以上母に会うこともできなかったようです。不比等が欲しかったのは天皇の血統だけだったのでしょう<(_ _)>。
藤原4兄弟は、不比等の娘で「夫人」だった宮子が皇后になれなかったことから学んだのでしょうか、やはり「夫人」として聖武天皇の後宮に入れた不比等の娘で異母妹だった光明子を強引に皇后にしてしまいました。長屋王の一家謀殺の背景には、藤原4兄弟がゴリ押しで夫人だった宮子を「大夫人」にしようとしたことや、「夫人」の光明子を立后することに長屋王が反対したこともあったようです。
いずれにしても天武天皇の長子の高市皇子の子であり、年齢的にも幼い首皇子よりも皇位に近い所にいた長屋王とその息子たちは、藤原氏にとって最大の脅威だったのですから、藤原4兄弟が長屋王を生かしておくことはなかったのだろうと思いますが、この時も「謀反」を仕立てて密告させるという同じ手を使っています<(_ _)>。「謀反」ということにすれば、一族はもちろんのこと周辺の人々も共犯者に仕立て上げることで残らず抹殺することができたのですよね(T_T)。
でもこの時に長屋王の妻の一人で不比等の娘だった長娥子と、長娥子が産んだ長屋王の息子だけれど不比等の孫でもあった安宿王・黄文王・山背王だけは生き残ったことをみれば、この「謀反」と称するものを仕組んだのが誰であったのかは明白でしょう。
ホームズは「犯罪には多くの共通点がある。千件の事件を研究すれば、千一件目の事件の謎が解けないことの方が不思議なくらいだよ」と言っていましたが(^o^)、先日「藤原氏のおなじみの常套手段」と書いたように、「中大兄―不比等―藤原一族」が邪魔者を排除するのに使った手口は、私でさえ気が付いてしまったくらいに本当にワンパターンなのですよね。
古代史の謎解きに必要なのは、学者さんたちの口癖の「ロマン」やつじつま合わせではなく、事件の謎解きと同様に、論理性と「一見不可解な事実の中に、それを解明し、理解可能なものに変えるカギとなるパターンを発見すること」のようです(^_-)。
不比等の孫として生まれた首皇子は、不比等によって父も母も奪われ、不比等の死後は、藤原4兄弟によって非藤原の県犬養広刀自との間に生まれた長女は幼いうちに遠い伊勢に送られてしまい、唯一の息子であった安積親王は立太子を阻まれたうえに16才で殺されてしまったのです(T_T)。