聖武天皇には県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)との間に1男2女、藤原光明子との間に1男1女がいたようです。他にもお妃や子供はいたのかもしれませんが、皇位継承に関わるのはこの5人の子だったということでしょうか。その中で、皇太子となり皇位を継いだのは「女」であった安倍内親王だったのです。これを時系列で辿ってみると、
717 井上内親王生まれる(母は県犬養広刀自)
721 井上内親王 5才で伊勢の斎宮に卜定される
? 不破内親王生まれる(母は県犬養広刀自)
727 基王生まれる(母は藤原光明子) 基王、生後32日で立太子
井上内親王10才 斎王として伊勢へ下向
728 1月 基王死去
10月 安積親王まれる(母は県犬養広刀自)
738 安倍内親王立太子
744 安積親王死去16才
井上内親王 斎宮を解かれる
749 聖武天皇の譲位を受け、安倍内親王即位(孝謙天皇)
758 孝謙天皇 大炊王に譲位
764 孝徳天皇重祚(称徳天皇)
非藤原の県犬養広刀自との間に生まれた長女の井上内親王は、わずか5才で伊勢の斎宮に卜定されて10才で伊勢へ遠ざけられ、生後32日で立太子された基王が728年に死去すると、安積親王という皇子がいたにもかかわらず738年には皇女の安倍内親王が立太子されているのですが、728~738年の間皇太子が定められていなかったのは、光明子が男の子を生むのを待っていたということなのでしょう。
10年経ってあきらめざるを得ず皇太子を立てたわけですが、この時安積親王ではなく安倍内親王が前例のない「女皇太子」に立てられたのは、母が藤原光明子だったからなのでしょうね。この時安積親王はもう10才になっていたのですから、基王が生後32日で立太子されたことを考えれば、幼いということは理由にはならなかったはずです。
すると、藤原氏が安積親王の立太子を妨げる口実にしたのは、「母の県犬養広刀自は王族ではない」ということでしょうか?広刀自を出した県犬養氏は、壬申の乱の時に県犬養大侶が大海人皇子(天武天皇)に近侍していて、天武天皇13年(684年)に宿禰姓を賜った氏族だそうですから、天武派、つまり応神派の氏族だったようです。だから藤原氏はどんな難癖をつけてでも、どんな手を使ってでも絶対に安積親王に皇位を継がせたくはなかったのでしょう<(_ _)>。
そして藤原氏は、脅威となるこの安積親王も744年に16才で暗殺してしまったようです(T_T)。
ここまでされれば、いくら藤原の血を引いていたとはいえ聖武天皇が藤原氏に反感を持つようになるのは当然ですよね~。藤原氏が聖武天皇にしたことはこれだけではなかったのですし・・・・
ネコビタイ便り
先月土に植えてみた3個のドリアンの種が
力強く土を押し上げて動き出したので、芽が出てきたのかな?と思ったのですが、この白くて太いたくましいものは潜っていくようなので根なのでしょうか?また逆さに植えてしまったのかな~<(_ _)>。植えたのは3個で、後はカビてしまったのですが、3個とも動いていますから発芽率はいいようです(^o^)。