「東漢氏」と書いて「やまとのあやうじ」と読むのはどうしてなのだろう?と疑問に思ったのですが、応神天皇系の武人(物部)たちは、近つ飛鳥の河内に対して東にある遠つ飛鳥の大和を本拠としていたからで、「西漢氏」と書いて「かわちのあやうじ」と読むのは崇神系の武人(物部)たちが西の河内を本拠としていたからのようです。
この河内に住んでいた物部の子孫たちは、昭和まで山を越えて竹内街道から「大和の餓鬼らあ」と叫びながらナガスネヒコの墓(との伝承)のある村の子供たちを襲ってきていたそうなので、
「生きている出雲王朝」を読んだ時には、
『歴史の中の日本』
これは大国主と天津族の戦い以来の因縁を遊びに再現しているのかな?と考えたのですが(^o^)、崇神系王族と応神系王族の5世紀から8世紀まで続いた激しい王位争いと、崇神系の軍団である「西漢氏」が葛城山の西側の河内にいたこと、応神系の軍団である「東漢氏」が東側の大和にいたことを考えると、ひょっとすると崇神系王族と応神系王族の王位争いの因縁を再現していたのかもしれませんね<(_ _)>。
その王位争いの渦中に立たされることになってしまった鵜野讃良皇女と安倍内親王は、境遇も意志の強さも強靭な精神力もよく似ていたようです。
鵜野讃良皇女は蘇我石川麻呂(入鹿)の孫で応神系王族でありながら、天智天皇を父とする崇神系王族でもあり、安倍内親王も文武天皇の孫で応神系王族でありながら、祖母は藤原宮子、母は藤原光明子という崇神系王族でもあったのですが、鵜野讃良皇女は天智天皇に祖父の石川麻呂(入鹿)を殺され、安倍内親王は不比等に祖父の文武天皇を殺されたようです。
天武―草壁―文武
||-首皇子(聖武天皇)
天智―不比等―宮子
文武――聖武(応神系王族でもあるが不比等の孫でもあった)
不比等―光明子(不比等の三女・安宿媛)
もしも「不比等の孫の聖武天皇」と「不比等の娘の光明子」との間に生まれ、生後わずか32日で強引に立太子させた基王が夭折しなければ、不比等の「血統による天皇家乗っ取り計画」はここで完成し、安倍内親王が女帝になることはなかったのでしょうけれど・・・
聖武天皇にはもう一人、非藤原系の県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)との間に生まれた安積親王という皇子がいたのですが、この安積親王も「脚気で急死した」ことになっていますが、16才で藤原氏に暗殺されてしまったようです(T_T)。
文武―聖武
||―安積皇子・井上内親王・不破内親王