都塚古墳が用明天皇陵ではとの古代史探偵/推古さまの達見には驚きました。
前方後円墳の時代から薄葬令が布かれれば、方墳か円墳の二択になるのではないかと浅慮しています。そして嶋恵さまのお考えのように大王クラスは差を付ける意味で単なる方墳でも円墳でもなく、下方上八角形墳を選んだのではないでしょうか。前方後円墳の時代は各地の豪族が力を持っていたので大きな前方後円墳を築けたのですが、大王が中央集権をすすめて富を収奪するためにも、地方(国造)の徒(いたずら)な出費散財はさせないことにしたとも考えられますね。
2019/6/23(日) 午後 9:42 [ kojita ]
Kojitaさまは薄葬令が出された後、地方の豪族は円墳か方墳かを選んで墓を造っていたとお考えのようですが、権威や権力を示す墓の形や大きさは、自分で選べるものではなかったのではないでしょうか。
例えば武寧王(斯麻)は、日本最大の前方後円墳である墳丘長525mの大山古墳に葬られた応神天皇の長子ですが、その墓である武寧王陵は前方後円墳ではなく、直径20mの円墳です。当時の百済は宋に朝貢していた属国でしたから、25代百済王となった斯麻は、父の墓ではなく宋の墓に倣って皇帝の墓よりも小さく造られた円墳に埋葬されたのだろうと思います。
選択の余地など与えないということが支配するということであって、自分の意思で選択したり決定したりすることができないということが支配されるということであり、墓の形も自分で選べたわけではなく、その時代の権力者の墓に従うのが当然であって、自分の意思で違う形の墓を造るということは、「従わない=反逆の意思を示した」ということになったのではないでしょうか?反逆の意思などなくても難癖をつけ、攻める口実にされたのではないかと思います。
朝貢国の王とは皇帝に任命されるものであって、宗主国の皇帝にお伺いを立ててその許可を貰わなければ王になることも皇太子(世子)を立てることもできなかったのですから、日本から百済に戻った斯麻が王位に就くことを宋の皇帝がすぐに認めたということは、斯麻が百済の王族の血統だったということであり、その父である応神天皇(余昆)は正当な王位継承権を持つ百済の王族だったということなのです。血統が根拠の全てだったのですから。
大国主の時代には、傘下の王たちの墓は大国主の墓に倣った前方後円墳で、三分の一大きさに造られていましたが、大国主を滅ぼして河内に崇神王朝を建てた崇神天皇は、歴代のどの大国主の墓よりも大きな誉田御廟山古墳を造り、崇神系王族から王位を奪って応神王朝を建てた応神天皇は、それよりもさらに大きな大山古墳を造り、王族はそれに倣った形の墓を造っていたわけですが、6世紀後半からは一斉にアメノタリシヒコが造った用明天皇の八角形墳に倣ったものに変わったのですから、585年以降に造られたものでこれまで方墳や円墳とされてきたものは、本当は全て都塚古墳・石舞台古墳に倣った八角形墳であろうと私は思います。
実際に天智天皇陵・天武天皇陵は八角形墳であることが分かっていますし、円墳とされてきた群馬県の伊勢塚古墳、水戸市の吉田古墳、飛鳥の牽牛子塚古墳は八角形墳であったことがすでに確認されているのですよね。
伊勢塚古墳
吉田古墳 平成17年に八角形墳であることが確認されたそうです。
牽牛子塚古墳
これはどんな形なのか全く分かりませんでしたが (^o^)