「記事は見たけれど観光宣伝目的だろうから勝手にすればと気にとめませんでした。」とおっしゃるkojitaさまは、学者さんたちの発表を盲目的に信じてはいらっしゃらないようですから、もし都塚古墳のコーナーの石をご覧になっていたら、「牽牛子塚古墳のコーナーの石と同じだ。四角錐ではないのでは?」とお気付きになったかもしれませんね(^o^)。
天智天皇が薄葬令を出し、律令制を目指していたというのは真っ赤なウソで、律令制を目指していたのは「馬子・蝦夷・入鹿の蘇我氏3代」と騙られたアメノタリシヒコ(馬子)とその子(蝦夷)と孫(入鹿)であり、それが「大化の改新」と騙られている中大兄(天智)のクーデターで中断させられた後、その事業を引き継いで「飛鳥浄御原令」として形にしたのは、やはりアメノタリシヒコの孫で壬申の乱で王位に就いた天武天皇(大海人皇子)と高市皇子・草壁皇子らの皇子たちであり、薄葬令を出したのは天智天皇ではなくアメノタリシヒコなのです。
それは天智天皇が即位したことになっている668(実際は649)年より前の622年に亡くなったアメノタリシヒコの墓が墳丘長100mを超すような巨大な前方後円墳ではなく1辺が55mの下方上八角形墳に造られていたことを見れば確かです。
また、架空の人物なのではないかと思っていた用明天皇は、欽明天皇の息子でアメノタリシヒコの父であり、571~585年に在位した実在の大王だったことが分かりましたから、欽明天皇の墓(墳丘長318mの見瀬丸山古墳)を造ったのは欽明天皇の息子の用明天皇であり、用明天皇の墓を造ったのは用明天皇の息子のアメノタリシヒコだということになりますね。
宮内庁は、大阪府南河内郡太子町大字春日の磯長谷古墳群にある「春日向山古墳」を用明天皇陵に治定していますが、用明天皇は飛鳥に宮を置いていた飛鳥の大王であって、父の欽明天皇の墓も、息子のアメノタリシヒコ(馬子)の墓も飛鳥にあるのですから、用明天皇陵が大阪に造られたはずはありません。この治定もウソでしょう。
それでは、息子のアメノタリシヒコが造った本当の用明天皇陵は飛鳥のどこにあるのか?
都塚古墳は、基壇の一辺が41mで、基壇の一辺が55mの石舞台古墳に匹敵するような大きな八角形墳だったようですから、それではこの都塚古墳がアメノタリシヒコの造った父・用明天皇の墓で、アメノタリシヒコが薄葬令を出したのは、585年に父の用明天皇が亡くなってその墓を造る時だったのではないでしょうか。アメノタリシヒコは「十七条の憲法」で、民をむやみに使役しないようにと王族や貴族を戒めてもいましたから(^o^)。
都塚古墳の石棺は、菖蒲池古墳の石棺とよく似ていたので「?」と思ったのですが、これは大王であった用明天皇の棺であり、石舞台に復元されていた石棺は息子の大王・アメノタリシヒコの棺、菖蒲池古墳の石棺は孫の大王・蝦夷、曾孫の大王・入鹿の棺のようですから、精巧な作りの最高級の石棺であったのは当然ですね。
都塚古墳の石棺
石舞台古墳の石棺
菖蒲池古墳の石棺
都塚古墳は、大王・アメノタリシヒコが造った父の墓であり、被葬者は『古事記』が橘豊日命、『日本書紀』が橘豊日天皇と記し、淡海三船が「用明天皇」と諡号を付けたアメノタリシヒコの父の571~585年に在位した大王でしょう。