Quantcast
Channel: 歴史探訪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

コメントへのお返事2

$
0
0
2019.6.22 コメントへのお返事2 
 
先日いただいたコメントに「遠足で宇治に行った」とお書きになっていらしたので、kojitaさまは奈良か京都の方のようだと思ったのですが、牽牛子塚古墳の説明会に行かれたのですね。
 
関東在住の私には奈良・京都は遠足に行けるような距離ではないのでそういったものに参加する機会はなく、発掘や説明会などの情報は後で新聞かテレビのニュースで知るだけなのですが<(_ _)>kojitaさまは都塚古墳の説明会にも行かれましたか?
 
学者さんたちは、都塚古墳を「四角錐のピラミッド型の古墳」だとしているようですが、私はこの古墳は「八角形墳」であろうと思います。大王(天皇)がいた飛鳥で、この墓だけが他とは全く違う四角錐に造られたはずはありませんし、写真で見た外周の角の石は、直角ではなく135度のように見えますし・・・。私が行った時には埋め戻されていましたが、kojitaさまはご覧になったでしょうか。
 

私は方向感がないうえに関西には土地勘もなく、地名も相互の位置関係も全く分からないので(T_T)、地図で場所を探すだけでも大変で、20155月に都塚古墳に行った時も石舞台から都塚古墳へすぐには辿り着けなかったのですが<(__)>、石舞台古墳に近いその位置と古墳の形から、アメノタリシヒコ(=蘇我馬子=聖徳太子)にごく近い王族の墓なのではないかと考えました。

 
でもその頃はまだ、聖徳太子の父用明天皇は即位してすぐに死んでしまったことになっていますし、「大兄皇子」という一般名でしか記されていませんし、宮内庁は大阪府南河内郡太子町大字春日の磯長谷古墳群にある方墳の春日向山古墳という、場所的にも形としても飛鳥の大王の墓ではあり得ない古墳を用明天皇陵に治定していたので、「用明天皇」は「架空の聖徳太子」の父として創られた架空の人物なのではないかと考えていたため、石舞台古墳の近くに同じような形で造られた都塚古墳はアメノタリシヒコの兄弟の墓なのかもしれないと考えたのですが・・・・・
 
どんなところなのか分からなかったので、20155月に行ってみたら、やはりこの古墳は↑の推理通り見晴らしの良い傾斜地に造られていて、周囲には棚田や段々畑が広がっていました(^o^)
 
都塚古墳

イメージ 1


 
イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

けれど、石舞台古墳は7世紀前半に造られたものなのに、都塚古墳はそれより前の6世紀後半に造られたものだそうなので、古墳の形が前方後円墳から八角形墳に変わったのは、アメノタリシヒコの石舞台古墳以降ではなかったのだろうか?と疑問が残りました<(_ _)>

イメージ 5


 
 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles