宇治丸山古墳も島泉丸山古墳も、私には全く納得できない治定だったのですが、その後宇治に出かけてみて、ウジノワキノイラツコの本当の墓は宇治市五ヶ庄に造られた墳丘長112mの宇治二子塚古墳であることが分かりました(^o^)。実際に見て分かることや確かめられることって本当にたくさんあるのです。
宇治二子塚古墳
「東洋人は湧き出るような空想の才を持っていて、真実といえども彼らにとっては伸縮自在の概念なのだ」と感じたヘディンは、話を聞いただけでは満足せず「事実と一致するかどうか、自分のこの目で、自分の器械で確かめるほかなかった」とも記していましたが、文献のつじつま合わせをしてきた学者さんたちは、「空想の産物(?)の文献」の記述を全て事実と信じて「事実と一致するかどうか、自分の目で確かめる」ということをしてこなかったようですね<(_ _)>。
雄略天皇は架空の人物ですから「雄略天皇の本当の墓」はないのですが(^o^)、ウジノワキノイラツコの息子で「本当のワカタケル王であった欽明天皇」の墓は、宮内庁が欽明天皇陵だとしている墳丘長140mの梅山古墳ではなく、橿原市の見瀬町・五条野町・大軽町にまたがる巨大な前方後円墳である見瀬丸山古墳であることも分かりました。
見瀬丸山古墳
埼玉の稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣」に刻まれていたように531年の辛亥の年に即位し、571年に亡くなった本当のワカタケル王の墓は、75mの円墳の島泉丸山古墳でも、墳丘長140mの梅山古墳でもなく、墳丘長318mの巨大前方後円墳である見瀬丸山古墳なのです(^o^)。
金錯銘鉄剣
そして天津族の王族の墓が円墳(円墳は学者さんたちの誤解で、本当は八角形墳なのですが)になったのは、架空の雄略天皇からではなく、欽明天皇の息子のアメノタリシヒコが薄葬令を出した7世紀以降のことなのです。
アメノタリシヒコ自身の墓(石舞台古墳)は、破壊されて石室だけしか残っていないため下方上円墳だったとされているようですが、それ以降に造られた天智天皇陵・天武天皇陵は八角形墳であることが分かっていますし、全国で円墳とされてきた古墳が本当は八角形であったことが次々に分かってきています。
御廟野古墳(天智天皇陵)
野口王墓古墳(天武天皇陵)
牽牛子塚古墳
王族の墓は、好き勝手な形や大きさで造られていたのではなく、その時代の最高権力者であった大王(天皇)の墓に倣ってそれよりも小さく造られていたのですから、天智天皇陵・天武天皇陵が八角形墳であるのなら、その時代の王族の墓は全て円墳ではなく八角形墳だったはずですし、逆に地方に八角形墳が造られていたなら、その時代の大王(天皇)の墓は八角形墳だったのです。