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ワカタケル(雄略天皇)の墓2

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以前調べた時には、雄略天皇陵は「近くにあった円墳と方墳を繋ぎ合わせて前方後円墳風に成型した」と記されていたので、2012年に大阪に行った時、どんなものなのかぜひ見たいと思ったのですが、なかなか近づくことができなくて時間がなくなってしまったので断念せざるをえませんでした<(_ _)>
 
その後2016年に改めて調べてみた時には、前方後円墳ではなく「島泉丸山古墳」として、濠で丸く囲まれているようだったので、切り離してもとの円墳に戻したのかな?と思ったのですが、
 
今日改めて調べてみたら、wikipedia には
 
島泉丸山古墳は、宮内庁により島泉平塚古墳と合わせて「丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)」として第21代雄略天皇の陵に治定されている。
 
と記されていました。この古墳の来歴を見ると、元治元年(1864年)までは丸山古墳のみが雄略天皇陵とされていたそうですが、1885(明治18年)に丸山古墳と隣の平塚古墳の間に盛土をして全体を前方後円墳の形に整形したのだそうです。

この方墳とされる島泉平塚古墳は、以前は小高い田畑だった所で、これまでに古墳であることを示す遺構や出土品は確認されておらず、古墳だったのかどうかも疑われているのだそうですが(^_^.)
 
これも「浮舟の杜」と呼ばれていたという丘を整形してウジノワキノイラツコの宇治丸山古墳と称するものを造ってしまったのと同じように、明治時代に宮内省が古墳ではないものを古墳に仕立ててしまったのですね<(_ _)>
 
グーグルの航空写真で確かめてみると、島泉丸山古墳は前方後円墳ではなく、周囲を濠で囲まれた完全な円墳になっているようです。池澤氏がわざわざ雄略天皇の墓が円墳になったいきさつを説明するオハナシを作ったのは、この古墳が今は円墳になっているからなのでしょうね。宮内省が「雄略天皇の墓」だとしているこの古墳が、今も1885年に成型したという前方後円墳の形のままであったなら、こんなオハナシを作る必要はなかったはずですから(^_-)
 
でも、宮内庁が「雄略天皇陵」として囲い込み、立ち入りを禁止している古墳なのですから、その形を変えることは宮内庁にしかできませんよね。前方後円墳風に成型したというこの古墳を、濠に囲まれた円墳に作り直したのは宮内庁なのでしょうけれど、宮内庁はいったいいつ、どういう理由で円墳に戻したのでしょうね?
 
ともあれ明治時代の宮内省は『記紀』の作り話に合わせて古墳を治定したり造ってしまったりし、歴史学者や小説家はその治定に合うようにオハナシを作ってそれを「この国の歴史」だとしてきたということのようです<(_ _)>
 
先日読んだ『さまよえる湖』には、ロプ・ノールについてたくさんの現地人に話を聞いたヘディンが「東洋人は湧き出るような空想の才を持っていて、真実といえども彼らにとっては伸縮自在の概念なのである」と記していましたが、歴史学者や小説家というのは「湧き出るような空想の才」を持った人たちで、どのようにでもオハナシを作ってしまうようです。

「事実は小説より奇なり」ではありますが、小説のように面白くはありませんものね(^_-)
 
ところで、「富雄丸山古墳」の記事が出てきたのですが、私が見たのは今年の1月の記事でした。「平坦面が広いのは前方後円墳の大王墓と類似している」と記されていますから、やはり最後の大国主・トミノナガスネヒコの墓だろうと思うのですが、前方部は削られてしまったのでしょうか、それとも初めから造ることができなかったのでしょうか?

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