小説『ワカタケル』ではワカタケルは雄略天皇(在位456~479年)であるとしているのですが、先日そのワカタケルが「生きているうちにオホサザキ(仁徳天皇)の墓より大きい寿墓を造りたい」と言い出した場面がありました。
でもワカタケルが雄略天皇であるなら、6世紀初頭に造られた「仁徳天皇陵」はまだ造られていなかったはずですけれどね(^_-)。
それはそれとして、日本には仁徳天皇とされている大山古墳より大きな古墳はありませんし、宮内庁は大阪府羽曳野市島泉にある直径75mの円墳である「島泉丸山古墳」を雄略天皇陵だとしているのに、どうやってつじつまを合わせるのかな?と興味を持ちました(^o^)。
池澤氏は、ここまで、ワカタケルは雄略天皇で、大山古墳は399年に亡くなった仁徳天皇の墓であり、タケノウチノスクネは300年以上にわたって5代の天皇に仕え、応神天皇を妊娠中の神功皇后と共に三韓征伐に行ったのだというように、『記紀』の作り話や宮内庁の治定に沿ったオハナシを展開してきたのですから、ここにきて宮内庁の治定を否定するようなことを書くはずはありませんものね(^_-)。
で、どうやって雄略天皇の墓を「仁徳天皇陵より大きい日本最大の前方後円墳」から宮内庁が雄略天皇陵に治定している古墳の中でも小ぶりな75mの円墳に持っていくのだろうと興味津々だったのですが(^o^)、小説では、ワカタケルは「場所は父祖たちの墓のある河内の大和川の南岸で、形は前方後円墳、大きさはオホサザキの御陵を上回るもの」と希望したものの、いまこの国にそれだけの力はないということで、反対されてしまったというオハナシになっていました(^o^)。
でも宮内庁は、神武天皇陵(橿原市)・崇神天皇陵(天理市)・垂仁天皇陵(奈良市)・景行天皇陵(天理市)・神功皇后陵(奈良市 神功皇后は抹消されたのに神功皇后陵はまだあるようです)など、雄略天皇の父祖の墓は奈良にあるとしているのに、池澤氏はなぜワカタケルの父祖の墓のある地は河内の大和川の南岸だとしたのでしょうね?
小説では、ワカタケルは短気で乱暴で怒るとすぐに人を斬るので、「河内にオホサザキの墓より大きな墓を」というワカタケルの言葉に誰も表立って反対はせず、長い沈黙が続いたのちに渡来人のサナギという者が宋の国の墓は丸いという例を持ち出して前方後円墳ではなく全く新しい形にしてはどうかと提案し、四方八方から万民の慕う気持ちを受け取るべく丸く造るのが陵の正しい形であって、丸なら初めから大きく造る必要はなく、後からいくらでも大きくすることができるとワカタケルを丸め込んだことにしていました(^o^)。
そういうオハナシを作ることで、誉田山御廟古墳や大山古墳のような巨大前方後円墳築造の最盛期だったにも関わらず、雄略天皇の墓だけが巨大な前方後円墳ではなく、宮内庁が治定した小ぶりな円墳であることとつじつまを合わせたようですが、この古墳が今も直径75mしかないということは、ワカタケル(雄略天皇)は生きているうちにも死んでからも、この円墳を日本一の大きさにしてもらうことはできなかったようですね(^_-)。
けれど、この後に造られた継体天皇陵も、宮内庁が欽明天皇陵だとしている梅山古墳も円墳ではなく前方後円墳なのですから、雄略天皇の時から古墳の形は円墳になったというオハナシは成り立ちませんね。
継体天皇陵
宮内庁が欽明天皇陵だとしている梅山古墳