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垂仁天皇陵 2

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2019.6.17 垂仁天皇陵 2
 
崇神天皇陵は河内にあり、56世紀には天津族は河内にいたのですから、垂仁天皇の墓も奈良ではなく河内の古市古墳群の中にあるはずです。それでは本当の垂仁天皇の墓はどの古墳なのでしょうか?
 
河内王朝の始祖王である崇神天皇の墓は別格として、地図を見るとその周辺には宮内庁が仲津姫陵だとしている仲津山古墳」、「允恭天皇陵だとしている市野山古墳」、「仲哀天皇陵だとしている岡ミサンザイ古墳」、「ヤマトタケルの陵だとしている白鳥陵古墳」という4つの同じくらいの大きさに見える前方後円墳があります。
 
けれど允恭天皇・仲哀天皇・ヤマトタケルは『記紀』の作った架空の人物ですし、巨大な古墳は大王の権威と権力の誇示のために造られたのですから、大王ではなかったヤマトタケルや仲津姫のために造られたはずはありません。この4つの古墳の宮内庁の治定は全て違っているのです。
 
ところで宮内庁が仲津山古墳の被葬者だとしている仲津姫っていったい誰なのだろう?と調べてみると、景行天皇の曾孫で、応神天皇の皇后となって仁徳天皇を生んだ人なのだそうです。
 
それではこの仲津姫という人も架空の人物ですね。景行天皇は架空の人物ですから曾孫がいたはずはありませんし、この人が生んだという仁徳天皇も架空の人物なのですから(^o^)
 
もし仲津姫という人が実在したとしても、皇后に巨大古墳が造られたはずはありませんし、応神天皇陵は百舌鳥古墳群にある6世紀初頭に造られた大山古墳なのですから、その皇后の墓は古市ではなく百舌鳥に造られたはずです。仲津山古墳の被葬者が仲津姫である可能性は100%ありません(^o^)
 
この4つの古墳はいずれも墳丘長が200mを超す巨大古墳のようですから、河内王朝の初代王となった崇神天皇に続く第2345代の崇神系大王(天皇)の墓であり、この4つの古墳のうちのどれかが河内王朝の二代目の垂仁天皇の墓なのではないでしょうか。
 

そこでこの4つの古墳について調べてみると、中津山古墳(5世紀前半 墳丘長290m)→ 白鳥陵古墳5世紀後半 墳丘長200m)・市野山古墳5世紀後半 墳丘長230m)→岡ミサンザイ古墳(5世紀末 墳丘長245m)の順で造られたことが分かりました。白鳥陵古墳と市野山古墳はどちらが先に造られたのかは分からなかったのですが。

 
宮内庁がヤマトタケルの墓だとしている白鳥陵古墳
イメージ 1

イメージ 2

 
イメージ 3

それではこの4つの中で最初に作られた中津山古墳が2代目の垂仁天皇(倭王・讃)の墓であり、白鳥陵古墳と市野山古墳が3代目の倭王・珍と4代目の倭王・済の墓で、岡ミサンザイ古墳が5代目の倭王・興の墓なのではないでしょうか。誰も大王よりも大きな墓を造ることなどできなかったはずですから。
 
倭王・武は「架空の雄略天皇」ではなく応神天皇であって、崇神系の大王ではありませんから、その墓は古市古墳群にはありません。百舌鳥古墳群の中の最大の古墳である6世紀初頭に築造された大山古墳が、応神系王朝の始祖である応神天皇の墓なのです。
 
倭王・讃が垂仁天皇であり、倭王・武が架空の雄略天皇ではなく応神天皇であることについては「古代の地形から『記紀』の謎をとく」の第6章の「倭の五王を推理する」をご参照ください。
 
宮内庁と文化庁は、この大山古墳を「仁徳天皇陵古墳」として世界遺産に登録申請しているのですが、この古墳の被葬者は仁徳天皇ではありませんし、古市古墳群・百舌鳥古墳群の被葬者は全て宮内庁の治定した人物とは異なっているのですよね。それなのにそのまま申請していいのでしょうか?
 
これまでに登録後に取り消されたものが2件あるそうですが<(_ _)>
 

 


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