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垂仁天皇陵

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『古事記』の記述から、大国主は一人ではなく別名とされている名前の数だけいたのではないかと考え、3世紀~4世紀末か5世紀初めに天津族に滅ぼされるまでに6人(6代)の大国主がいたのではないかと考えたのですが、もしかすると『古事記』は全部を記したわけではなく、実際はもっといたのかもしれませんね。巨大古墳が箸墓→西殿塚→茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山の順に造られ、最後のナガスネヒコの墓が富雄丸山古墳であるとすれば、少なくとも7人にはなるわけですし。
 
2015年に奈良駅から富雄川に向かう途中で唐招提寺に寄ったのですが、その近くにも大きな古墳があったので行ってみたら「垂仁天皇陵」でした。なぜ垂仁天皇の墓がここにあるのだろう?と疑問に思ったのですが、宮内庁の治定した天皇陵で考古学的に信用できるのは天智天皇陵と天武天皇陵の二つだけだというのは本当のようで、他は全部違っているようです<(_ _)>
 
宮内庁が垂仁天皇陵だとしている宝来山古墳
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応神天皇までの天津族の大王墓(天皇陵)は河内にあるのですから、奈良にあるこの宝来山古墳が垂仁天皇陵のはずはありませんし、この古墳も4世紀後半に築造されたものだそうですから、5世紀以降の天津族のものではなく大国主の時代のもののようですしね(^o^)
 
この古墳も墳丘長227m、周濠まで含めると330mという巨大な前方後円墳だそうですから、4世紀後半の大国主のお墓なのではないでしょうか。少なくとも5世紀の垂仁天皇の墓ではないと思います(^o^)
 
宮内庁は、垂仁天皇は11代天皇でB.C.2970年に在位したとしているのですが、この古墳が垂仁天皇陵なのであれば、1世紀に亡くなった垂仁天皇の墓は4世紀後半まで造られなかったということになりますよね。
 
さらに宮内庁は、B.C.97B.C.30年に在位したとする10代崇神天皇の陵は天理市の行燈山古墳だとしているのですが、この古墳も4世紀に造られたものなのですから、紀元前に亡くなった天皇のお墓であるはずがありませんよね。
 
崇神天皇は、本当は紀元前の人ではなく45世紀初めの人であって、その陵は古市古墳群の中で最大の古墳である5世紀初頭に造られた墳丘長425m「誉田山御廟古墳」なのです。けれど宮内庁は、この古墳を6世紀初頭に亡くなった応神天皇の墓だとしているのですよね。
 
応神天皇は、実際は440年に生まれ、464~506年に在位した人なのですが、宮内庁は応神天皇は270310年に在位した天皇だとしているのですから、「誉田山御廟古墳」を応神天皇の墓とするのは、310年に亡くなった天皇の墓が5世紀初頭まで造られなかったということになるのですけれどね~。



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