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渋谷向山古墳は景行天皇陵?

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2019.6.15 渋谷向山古墳は景行天皇陵?
 
関東地方にも大きな古墳があるということを知って、何の知識もないままに見に行ってみていた頃、どれを見ても「大和政権と関係の深い地方の豪族の墓である」と記されているので、地方の豪族って何なのだろう?大和政権との深い関係ってどんな関係なのだろう?天皇と同じような権力や財力を持つ豪族があちこちにいたということなのだろうか?といつも疑問に思っていました。
 
それどころか、「地方の豪族の墓」だと記されていた宇治二子塚古墳に至っては、継体天皇陵と同じ頃に築造されたもので、ほぼ同じ形・同じ大きさであるうえに、遠い関東ではなく学者さんたちの言う「大和政権」のすぐ近くの宇治にあるのですよね。大和政権の天皇だったはずの継体天皇の墓は大和からは遠い大阪府の高槻市にあるというのに・・・・

宇治二子塚古墳
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『古事記』には、自分の真似をした一言主の神を雄略天皇が土佐に流してしまったと記されていますが、自分の真似をすることも自分と競うことも許さないということが支配するということなのですから、学者さんたちの「説」のように、地方の豪族が天皇と同じ墓を造るなどということはありえなかったのです。
 

ところで富雄丸山古墳の再調査の記事を探していたら、昨日の「城の山古墳」の記事と一緒に「景行天皇陵古墳の発掘現場を宮内庁が公開した」という2015年の記事が出てきました。「?」と思った記事は片っ端から切り取って箱に放り込んであるのです(^o^)。放り込んだままになっているものがほとんどですが(^_-)

 
イメージ 2

景行天皇は、架空のヤマトタケルの父として『記紀』が作った71130年に在位したとされる天皇で、架空の人物ですから墓などあるはずはないのですが、宮内庁は天理市の渋谷向山古墳を「景行天皇陵古墳」として管理しているそうです。

渋谷向山古墳
イメージ 3

イメージ 4

けれど↑の記事には、この古墳は4世紀後半に築造されたと書いてありますよね。それでは2世紀の130年に亡くなったはずの景行天皇のお墓は4世紀後半まで造られなかったということになりますが、宮内庁や歴史学者さんたちはいったいどういう説明でつじつまを合わせているのでしょうね?
 
架空の舒明天皇を実在と信じ、甘樫丘に造られた蝦夷の大王墓を「舒明天皇の初葬墓である」としているのと同じように、「2世紀に亡くなった景行天皇は4世紀後半になってから渋谷向山古墳に改葬された」ということにでもしているのでしょうか(^_-)。それとも死後200年以上も経ってから墓が造られたという不自然さに気が付いてもいないということでしょうか?もしそうなら「ボーッと生きてんじゃねーよっ!」と言いたいところですが(^_-)
 
渋谷向山古墳は「しぶやこうやまこふん」なのかな?と思ったら、「しぶたにむかいやまこふん」なのだそうです。漢字の読み方って難しいですね~<(_ _)>
 
この古墳は全長300m、後円部径168m、前方部幅170mの古墳時代前期では国内最大の古墳なのだそうですから、それならこの古墳はこの時代の大国主の墓でしょう。同じ時代には誰も、大王(大国主)より大きな墓を造ることなどできなかったはずですし、ましてやここは大国主の「葦原中国」だったのですから。
 
鳥見山古墳群の巨大前方後円墳は、箸墓→西殿塚茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山の順に造られたのだそうですから、渋谷向山古墳の被葬者は、行燈山古墳の被葬者の次の代の大国主のようですね。
 
すると最後の大国主となったトミノナガスネヒコは、渋谷向山古墳の被葬者の次の代の大国主だったのかもしれませんね。
 

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