埼玉県桶川市の熊野神社古墳は、4世紀に造られたものであり、出土品はメスリ山古墳の出土品に類似しているそうですから、築造時期や副葬品などから見てこの古墳の被葬者は、大国主の傘下に入っていた4世紀のこの地方の王であろうと思います。
熊野神社古墳
それならこの円墳とされてきた熊野神社古墳の墳形も、4世紀初頭の大王(大国主)の墓であるメスリ山古墳に倣った柄鏡形だったのではないでしょうか。同時期に造られた各地の王の墓は、墳形は当時の大王(大国主)の墓に倣い、大きさは大王の墓のほぼ三分の一に造られていたようですから。
熊野神社古墳の後円部の径は38m(44mとするものもあるようですが)だそうですから、この古墳もこの時期の大王墓である後円部の径が128mのメスリ山古墳の三分の一の大きさで造られていたのではないかと思います(^o^)。
同じ時期に全国で同じような古墳がつくられていることから、学者さんたちは古墳には設計図があったとお考えのようですが、その設計図はどうやって全国に一斉に広がったと考えているのでしょうね?
設計図というものがあったのかどうかは分かりませんが、3~4世紀に全国各地で一斉に同じような大きさや形の前方後円墳が造られるようになったのは、その時代の大王(大国主)の墓を基準として造られたからであり、その大きさや造り方は、毎年神無月に傘下の王(国主)たちが葦原中国の大王(大国主)のもとに集まった場で各地の王に伝えられていたのだろうと思います。その時に図面のようなものも配られていたのかもしれませんね。
ところで富雄丸山古墳の再調査の記事の切り抜きを探していたら、その記事は見つからなかったのですが、代わりに↓の記事が出てきました。
この円墳とされていた新潟の4世紀前半に築造された「城の山古墳」も、円墳ではなく前方後円墳だったことが分かったようですが、やはり4世紀に造られた各地の王の墓は、円墳ではなく全て大国主の墓に倣った前方後円墳だったようですね\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。
この記事には、「大和政権の力がこの付近まで及んでいた」と記されていますが、これは、学者さんたちが思い込んでいるような天津族の大和政権ではありません。
紀元前660年に神武天皇が橿原で即位したというのはウソで、4世紀には天津族はまだ畿内には来ていませんし、諏訪神社がたくさんある新潟は4世紀には天津族ではなく大国主の傘下に入っていたのですから、この「城の山古墳」も、その50km南西にあるという「菖蒲塚古墳」も、桶川市の「熊野神社古墳」と同じように大国主の傘下に入っていたそれぞれの地域の王の墓でしょう。
そういえば、今も大国主を大切に祀っている能登には「大国主は新潟からやって来た」と伝わっていました。
この「城の山古墳」の径は39mで、38mの桶川市の「熊野神社古墳」とほぼ同じ大きさのようですから、やはり大国主の墓の三分の一の大きさに造られていたようです。各地の王(国主)の墓は大王(大国主)の墓の三分の一以下にすると決められていたのかもしれませんね(^o^)。
江戸時代の武家屋敷の玄関の式台なども、家格によって間口の大きさや作り方などが細かく定められていたようですが、身分や格によって家や髪形や服装などに目に見える形で明らかな差をつけ、それを越えたり乱したりすることは許さないというのが「身分制度」というものだったようです。
無駄としか思えないような墓の大きさや形は、権威や権力の大きさを誇示するためのものだったようですから、墓の形にしても大きさにしても勝手に作ったり、ましてや大王を凌ぐようなものを造ったりすることなどは絶対に許されなかったはずです。