2019.6.13 トミ(鳥見・登彌・登美)の里
富雄丸山古墳や石木町の登彌神社の辺りは、奈良時代には「登美郷」であり、和名抄では「鳥貝(見?)郷」、中世には「登美庄」・「鳥見庄」だったそうですから、やはりこの辺りが「トミの里」であり、そのトミの里で一番大きな墓である富雄丸山古墳は4世紀末頃に殺されたトミノナガスネヒコの墓のようですが、それならやはり富雄丸山古墳は円墳ではなく前方後円墳だったはずですね。
富雄川西岸の丸山古墳の南にある杵築神社は、ナガスネヒコがその祖のスサノオを祀っていた祖廟で、東岸の登彌神社はトミの里の王であったナガスネヒコを祀る神社だったのではないでしょうか。この登彌神社の現在の祭神はニギハヤヒノミコトになっているようですが、長髄彦が祀られていたとの伝承もあるようです。
登彌神社の辺りは、周辺の水田地帯より20mくらい高いようで地名が「木島」となっていますから、当時は島だったのかもしれません。
ニギハヤヒは天磐船で天降って来たとされている天津族で、崇神天皇の侵攻に先立ってヤマトへ潜入し、ナガスネヒコの娘婿になっていたようで、ナガスネヒコはこのニギハヤヒ(別名・天稚彦命)と娘(下照姫・高照姫・御炊屋姫命などいろいろな名前が使われています)との間に生まれた孫のウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)に殺されたようで、天皇はその功績を賞してウマシマジに「フツノ霊(みたま)の神剣」を与え 申食国政大夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ・国政大臣)に任じたのだそうです。
この下照姫は『古事記』ではナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)、日本書紀では三炊屋媛と記されているそうですが、実際はオオヒコノミコトの娘婿となってヤタガラスとして天津族の手引きをしたアジスキタカヒコネ(事代主)の妹で、ナガスネヒコの娘であり、葛城に住んでいたようです。
葛城の高鴨神社の由緒
ニギハヤヒと下照姫の宮があった葛城の長柄神社(姫の宮)
アジスキタカヒコネがヤタガラスとして天津族の征服に貢献したことは『新撰姓氏録』にもしっかりと記されていて、皇祖神の一人として「事代主命」の名前で宮中に祀られているのですが、アジスキタカヒコネは大国主の息子であって天津族ではありませんから、「皇別氏族」ではなく「神別氏族」に分類されています。血統だけが身分の根拠なのですから、その辺りは実に厳格にきっちりと記されているのですよね(^o^)。
「登弥神社は、元々は矢田坐久志玉比古神社から分祀された」との説もあるそうですが、この矢田坐久志玉比古神社とは大和郡山市矢田町にある式内大社で、祭神は櫛玉饒速日命と御炊屋姫命(の夫婦)だそうですから、登彌神社の元々の祭神ではないでしょう。これは現在の祭神を見て作ったつじつま合わせの説だろうと思います。
また、この地域には「鳥見」姓の旧家が数軒あるそうですが、ナガスネヒコの子孫でしょうか?でも本家筋(?)は「富」氏を名乗っていて、今も大国主の歴史を一子相伝で語り伝えているようですから、奈良の「鳥見」氏はアジスキタカヒコネの子孫かもしれませんね。
そういえば、↑に『時の娘』のことを書きましたが、昨日の夕刊にたまたまこの本のことが載っていました(^o^)。