奈良市西部にある“富雄丸山古墳(再調査で直径が109mと判明し、全国最大規模の円墳だと2018年報道された。築造時期は4世紀後半)”も丸墓山古墳と同様に、何らかの理由で前方部が削られたのかも知れませんね。鎌倉時代以降全国で城や砦が古墳の上に作られており、聖武天皇陵でも戦国期の松永弾正の多聞山築城で壊されたと言われています。
2019/6/11(火) 午後 7:32 [ kojita]
そうですね。富雄川の周辺には「トミ神社」がいくつもあり、古墳も多いようなので、神武が戦ったと『記紀』が記したトミノナガスネヒコがいたのはここだったのではないか、このトミノナガスネヒコが天津族に滅ぼされた葦原中国の最後の大国主なのではないかと考えていたので、2015年に行ってみました(^o^)。
登彌神社
そこにある大きな古墳(富雄丸山古墳)がトミノナガスネヒコの墓かもしれないと思ったのですが、その古墳は前方後円墳ではなく円墳だということなので、大国主の墓ではないようだとは思ったものの、「トミ神社」探訪の道筋にあったので行ってみました(^o^)。
なぜ前方後円墳ではなく円墳なのだろう?と疑問に思いながらも、その当時は「丸墓山古墳は日本最大の円墳である」という説明を信じていたので、それでは日本最大と言われるような大きな円墳が奈良と埼玉県の行田にあるのはなぜなのだろう?と疑問に思い、行ってみれば何か分かるのではないかと思ったのです(^o^)。
ところが行ってみると、この古墳は低地(水田地帯)に面した高台(矢田丘陵)の端のいかにもという場所にあったのですが、周辺は住宅開発が進んでいて、古墳ぎりぎりのところまで道路が作られ、道の反対側には新しい住宅がびっしりと建っていて、道からは古墳の形などは全く分かりませんでした。そこで下から見れば形や大きさが分かるかもしれないと麓の方に回ってみたのですが、下の公園にも古墳の説明はなく、やはり何も分かりませんでした<(_ _)>。
その時、「この一帯は宅地化のために整地されて古墳の形が変わってしまったのではないか」と考えたのですが、2018年の「再調査で全国最大規模の円墳であることが分かった」という記事を見て、「それではやっぱり円墳だったのか?」と思ったことをコメントを拝見して思い出しました。
大国主の時代の4世紀後半に奈良に築造された富雄丸山古墳は、論理的には円墳ではなく前方後円墳だったはずです。円墳だとされていたさきたま古墳群の丸墓山古墳も実際は前方後円墳だったようですから、富雄丸山古墳も畑などにするために早い頃に低い前方部が削られ、その後に宅地化のための整地や道路の造成などで前方部の痕跡がすっかり消えてしまったのではないでしょうか。
航空写真を見ると、現存の後円部の西側は野球場やテニスコートになっているようです。ここに前方部があったのかもしれません。
この富雄丸山古墳は、本当に崇神天皇とヤタガラスになって天津族の手引きをした息子のアジスキタカヒコネ(=事代主命)によって滅ぼされた最後の大国主の墓なのかもしれませんね(^o^)。