奈良県内の4世紀末までの古墳は、宮内庁が治定し、学者さんたち信じているような天津族の大王墓(天皇陵)ではなく、天津族が4世紀末に九州から侵攻してくるまで奈良の葦原中国にいた歴代の大国主とその一族の墓なのです。
『記紀』は、葦原中国は出雲にあって国譲りは島根県の出雲で行われたかのように記していますが、天津族が「譲らせた(本当は大国主を殺して攻め取った)葦原中国」は島根にあったクニではありません。なぜなら、譲らせたという島根には首都があったことも、大王(天皇)がいたことも一度もないではありませんか(^o^)。
島根の出雲は、大国主の葦原中国ではなくスサノオが渡来して来た地であり、出雲族の本貫の地なのです。ですから、不比等が和銅2(709)年に造らせた出雲大社(明治までは杵築大社だったそうですが)ではなく、もっとずっと古くから出雲族がその祖を祀っていた本当の出雲国の一之宮である熊野大社の祭神は「櫛御気野命(クシミケヌノミコト)」、すなわち素戔嗚尊です。
熊野大社
そして本当の大国主の葦原中国とは島根ではなく、『記紀』に神武が攻め取ったと記されている奈良(ヤマト)のことであり、その時期は神代のことでも紀元前660年のことでもなく4世紀末~5世紀初めのことであって、スサノオの子孫の大国主を殺しても天津族がすぐにヤマトへ入れたわけではなかったのです。
欽明天皇の代にヤマトへ入るまで、天津族は河内にいたのですから、河内にある4~6世紀に造られた古墳が崇神天皇から応神天皇までの天津族の王族の墓であって、奈良に造られた3~4世紀の古墳は、歴代の大国主とその一族の墓であろうと思います。
4世紀初頭に築造されたメスリ山古墳は、全国各地の同時期の古墳の中では最大だそうですから、それならメスリ山古墳が3世紀末~4世紀初頭の大国主の墓でしょう。同時代の人が、その時代の大王(天皇)の墓より大きな墓を造ることなどできなかったはずですから(^o^)。
3世紀半ばに箸墓古墳が築かれた後、全国で一斉に箸墓古墳を基準とした前方後円墳が造られるようになったようですから、鳥見山古墳群の巨大前方後円墳が、箸墓→西殿塚→茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山の順に築かれたというのが確かなのであれば、箸墓古墳が3世紀半ばの初代大国主の墓であり、4世紀初頭に造られたメスリ山古墳は4代目の大国主の墓なのではないでしょうか(^o^)。
箸墓古墳