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伊奈備前守と利根川

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2019.6.5 伊奈備前守と利根川
 
「のぼうの城」では利根川の堤防を切って忍城を水攻めにしたとされていたのですが、地理音痴の私は位置関係が全く分からなかったので、地図で忍城と利根川を探してみました。すると、利根川は忍城のずっと北の方を流れていたので、利根川は忍城の水攻めには使えなかったのでは?と思ったのですが・・・・

忍城絵図
イメージ 1

現在の忍城
イメージ 2

イメージ 3

 
イメージ 4

それではいったいどの川を水攻めに使ったのだろう?と疑問に思って調べてみると、現在の地図にある利根川は江戸時代に伊奈氏が東遷させた後の流れであって、三成の時代の利根川は現在の利根川とは全く違っていたことが分かりました。三成は、現在の利根川を使って水攻めをしたのではなかったのですよね
 
このこと一つをとってみても、過去の歴史を今の地図で解釈するのは大間違いで、古代の歴史は古代の地形で、中世の歴史は中世の地形でというように、その時々の地形で考えなければならないのです。
 
江戸時代までの利根川は分合流の変化が激しく、流路を頻繁に変えながら江戸湾に流れ込んでいて、しょっちゅう洪水を引き起こしていたそうですが、これは関東平野は古代には海で、川は後退していく海までの水路として残ったものだったからで、流路は初めから定まっていたわけではなく、その時々に湿地の中の流れやすい所を流れていたということでしょう。広大な美田が広がる関東平野は、江戸時代以降に作られたものなのです。
 
無秩序に川が流れ、雨が降ればすぐに氾濫して水浸しになってしまっていた関八州の沖積低地の河川改修と治水工事にあたったのが、家康によって関東郡代に任じられた伊奈忠次・忠治・忠克の伊奈氏3代で、利根川を江戸湾から銚子に東遷させる大事業も伊奈氏3代によるものだったようです。
 
埼玉県伊奈町の小針領家に残る「伊奈堤」の説明には、「現在の赤堀川の上流を遊水池として、その下流の水田と江戸の城下を氾濫から守るために築かれた。しかし伊奈堤の上流の村々はしばしば水田が冠水する被害を受けた」と記されていたので「それでいいのか?」と疑問に思ったのですが、家康に任命された伊奈氏の治水事業の第一の目的は江戸の城下を洪水から守ることだったのですね。
 
伊奈堤
イメージ 5

先日のブラタモリでは「ちばらき(現在の利根川を挟んだ千葉と茨城の県境一帯)」が取り上げられていましたが、その一帯は今も水郷地帯と呼ばれている古代には海だった広大な沖積低地で、江戸城下を氾濫や洪水から守るために利根川を持って来られてしまったため、ここはたびたび水害に見舞われることになったのだそうです<(_ _)>
 
ところがここではそれを逆手にとって、利根川が運んできた土砂が作った中州に土を盛ることで上流から中州を次々に水田化していき、下流も潮が退いた時に土を盛って水田化していくことによって広大な水田を得、土を掘り上げた跡は水路として水運と観光に活用して江戸近郊の一大行楽地としておおいに繁栄したのだそうです(^o^)
 
私は花の時期に行ったことはないのですが、そういえば潮来は今「あやめ祭り」の真っ最中ですね。



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